高い壁に囲まれた、海の近くにある白い家。

 門戸が開かれない限り、日光と風ぐらいしか入り込めないそこに、チェズレイは半年ぶりに足を向けていた。

 訪問者の存在を感知したのだろう。壁の向こう側で人の気配が動いた。

 重々しい音を立て、鉄扉が内向きに開かれていく。

 庭師によってよく手入れされた中庭がチェズレイを出迎えた。色とりどりの花が視界を楽しませてくれるが、嗅覚はそうもいかない。海が近いせいで、花の香りが潮風にかき消されてしまうのだ。

 身を浸らせずとも潮風で肌も風もべたつくから、チェズレイは海が好ましくない。

 けれど彼女は海が好きだった。

 感覚なんて錆びつくぐらいが丁度いい、と。

 だからこの家は海の近くに建てられた。

 中庭を抜けたチェズレイは、屋敷の玄関を押し開ける。

 二人の故郷の様式で建てられた、一人で住むには広すぎる大きさの家。

 広大な玄関ホールはそこだけで走り回れそうなほど。当然、チェズレイはそんなはしたない真似はしないし、やろうという好奇心すら湧かない。

 よく教育された召使いしか揃えられていないはずの屋敷にもかかわらず一人として出迎えに現れないのは、チェズレイの意向を知っているからだ。

 チェズレイが会いに来たのは彼女だけ。

 他人に混じられると、それが濁る、、

 しっかりと躾けられた召使いたちは、存在の気配こそ感じさせつつも、その影すら踏ませない。チェズレイには満足できる状況だった。

 二階へ繋がる、吹き抜けの階段に足をかけた。
 足音を隠そうともせず、こつこつと上っていく。

 彼女の部屋は二階の東側──西側の食堂からもっとも遠い、最奥の一室。

 そのドアをノックしようとチェズレイが腕を持ち上げるまえに、中から鈴を転がすような声がした。


「どうぞ。チェズレイ」


 その反応に驚くこともなく、チェズレイは言われるままにドアノブを回した。

 室内にある人影は一つ。

 大窓から差し込む日差しをカーテン越しに被る、車椅子のが瞑目したままチェズレイと向き合った。


「相変わらず耳がいいですねェ」

「唯一の取り柄だもの。……なんてね。私に会いに来る人で、足が三つあるのなんて貴方ぐらいだから、チェズレイだけはすぐに分かる」


 三つ目の足とは、チェズレイが常日頃持ち歩く杖のことだとすぐに分かった。


「あァ。種明かしをされてしまうと、つまらない話になりました」


 チェズレイが大袈裟なほど肩を落とすと、彼女は瞼を下しているにもかかわらず見えているように、クスクスと愉快そうに笑った。


「お久しぶり。貴方も元気そうでよかった」

「いい加減、引っ越す気になりましたか?」

「残念なことに、まだ」


 ……残念。

 それは誰にとって、なのか。

 明晰なチェズレイの脳でさえ、長らく判断できない難問だった。


「私、汚いでしょう」


 淡々と告げる彼女の身に、目に映る汚れはまったくない。

 髪はさらさらと靡く、最高級の絹のよう。強い日差しを避けて生活するせいか、肌も陶器みたいに真っ白だ。召使いたちが気を配る衣服には一片のシミもない。

 控えめに言っても、人形のように美しい女である。

 けれどチェズレイは彼女の言葉を否定しなかった。

 ドアは開け放たれているのに、部屋の主にも招かれているのに、彼はその中へ踏み込まない。それが彼女の発言の、何よりの証左だった。

 チェズレイがを美しいと感じる心に偽りはなく。

 同時に、彼女の心身はこの上なく濁っている、、、、、と思えてならない。


「だからまだここにいる。海は素敵よ。洗い流した汚れは、潮風がすべてさらってくれるの」

「……そううまくいきますかねェ」

「うまくいくまでやるだけ。でしょう?」


 いたずらっぽく同意を求めてきたに、チェズレイはやれやれと苦笑した。

 自分たちは何もかも変わってしまったのに、そんなところばかり彼女は昔と同じままなのだ。












 チェズレイとは許嫁だった。

 ……だった、と過去形の通り、いまとなっては昔の話。

 お互いの自我がはっきりするよりも前に、互いの両親が勝手に取り決めた婚約。とはいえそれも、の両親が事故で逝去し、自身もその事故で目と足を奪われるまでのことだった。

 主たる夫妻がいなくなったことで、の家には遺産に群がるハイエナがあっという間に群がった。大怪我を負った子どもにできることなど何もなかった。が意識を取り戻すよりもはやく、ハイエナたちは家の財産は根こそぎかっさらっていった。

 もはや落ちた名家に価値はない、とチェズレイの父は判断した。

 チェズレイが家の没落を知るよりもはやく、二人の婚約は解消。

 それからチェズレイが父親を殺してそのすべてを我が物とするまで、二人が会うことはなかった。厳密に言えば、チェズレイがの存在を思い出すまで。そういえば彼女はどこに行ったのだろう、とほんの気紛れで捜索するまで。

 は孤児院にいた。

 天涯孤独となった彼女がそこにいること自体はおかしくもなかったが。

 娼婦紛いの真似事をさせられているとなれば、話は別だった。

 馬小屋の方がマシだと思えるほど薄汚れた、狭い一室で彼女は殺された家畜のように横たわっていた。そこが彼女に与えられた私室で、仕事場らしかった。

 ドアを開けただけで、眉をひそめてしまうほど人間の濃い匂いが鼻をついた。

 ここで人間としてのすべてを済まされる日々を送っているのだ、と考えるまでもなく答えが出る。

 チェズレイがかける言葉を探しているうちに、彼女は見えていない目で彼を見据えた。


「誰?」


 その頃のチェズレイには、まだ三つ目の足がなく。
 目の見えない彼女がチェズレイを判別する手掛かりはなかったのだ。


「……チェズレイ?」


 だというのに、彼女はそう呟いた。


「……はい」

「本当にチェズレイなの? ……驚いた。どうしてここに? ああ、そんなのどうでもいいか。本当にチェズレイならお願いがあるの」


 あのね、と彼女は続けた。


「触らないでね、チェズレイ」


 ──世界の色がすべて移り変わっても、昔と変わらず美しい彼女が。

 食われるだけの家畜のように惨たらしく、チェズレイに乞うた。


「私、汚いから」


 そんな再会のついでに、チェズレイはその娼館じみた施設を取り潰した。

 それぐらいしか八つ当たりの行き先がなかっただけの話だった。












 目も足も使い物にならないが一人で生きていける道理はない。チェズレイは彼女のために家と召使いを用意した。

 チェズレイとの関わりが漏れないよう、自分が近付いていいのも年に数回のみと決めた。その甲斐あって、敵対組織にも彼女の存在が掴まれることはなかった。

 その家に、チェズレイは年に数回、話をしに行った。

 同じ空気を吸わないよう、一定以上は近づかず。

 指一本触らない、数分間の近況報告。

 話が途切れたタイミングが、別れのとき。

 さよなら、それではお元気で。

 二人は示し合わせたように声を揃わせて、チェズレイが去る。は見えない目で見送る。車椅子が追いかける音は聞こえない。

 そんな十数年。

 今日もまた、その一つ。

 チェズレイが彼女の下を訪れる工程も、以前と同じ。

 召使いに開けられた鉄扉をくぐり、整えられた中庭を抜け、屋敷に入って、二階の東側最奥の部屋の前に立つ。


「どうぞ、チェズレイ」


 聞こえる言葉も、変わらない。

 ただ、変化はあった。

 屋敷でもにでもなく。

 ミカグラ島での事件を経た男に。


「────え?」


 動揺を漏らしたのは

 こつり。

 ドアノブを回したら動かないはずの彼が、一歩踏み出した音が聞こえたから。


「……なんだ。思っていたより、大したことありませんねェ」


 拍子抜けしたチェズレイは、しかし胸を撫で下ろす。

 大丈夫だ、という自信こそあったが。それでもやってみないと分からない結果はある。

 彼の足音は続いた。

 こつこつこつ、こつり。

 呆けた顔をしているの前で、止まる。


「先日、奇特な出会いがありまして。まァ色々と……得るものがありました」


 衣擦れの音で、チェズレイが何をしようとしているのか読んだのか。は車椅子を動かそうと手をかけたが、チェズレイが車輪に杖を差し挟んだせいで叶わなかった。

 車椅子ごと倒れそうになったの身体に、チェズレイの腕が伸びる。

 がしゃん、と車椅子が横転した。

 ホイールの空回りする音が室内にからから、と響く。

 安堵の息を吐いたのはどちらだったか。


「……このようにね」


 チェズレイに抱き留められていることに、はようやく意識が追いついたらしい。じたばたと全身でもがき出す。


「さ、触らないで! すぐに離して! じゃないと、」

「『貴方が濁る、、、、、』?」


 図星を指したせいか、の抵抗がぴたりと止まった。


「……だって、貴方のお母様は……」

「濁って死んだ。その通りです」


 チェズレイは倒れた車椅子を器用に足で立て直し、軽く埃を払うと、そこに改めてを座らせた。彼女と目線を合わせるように、床に膝をつく。


「私もそれが恐ろしかった。だから美しいものは美しいままでいてほしかった。それはいまも変わりません」

「なら……!」

「けれど、。美しいものが濁ることも、一つの味なのだそうです。拒絶しなければならないだけのものではない、と」


 小刻みに震えていた彼女の指へ、チェズレイは新雪に差し込むようにふわりと触れた。


「風味と呼ぶのだそうですよ。私もまだ完全に理解したわけではありませんが……濁っても、劣化するわけではない。それもまた美しいという人がいます。そういう人に出会いました」


 チェズレイは小さく溜め息をついた。


「……やはり、うまく説明できませんね」


 彼の憂いにはかぶりを振った。


「……分かるよ」

「本当ですか?」

「だってチェズレイはずっと綺麗だもの」


 はじめて彼女の目が見えなくてよかった、と思った。

 不意をつかれて、チェズレイは一瞬呆けた顔になってしまったのだ。そんな無様、彼女にだけは見せたくない。彼はすぐに余裕を取り繕った。


「……それはよかった。お揃いですねェ、

「なにが?」

「おや。風味は分かっても、こちらは分かってくださらない」


 イケズですねェ、とチェズレイは喉を鳴らした。

 ────私も、ずっと貴方を美しいと思っているんですよ。






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