深夜二時半の迷惑戦争






「それでは聞いてください。『寝室にゴキブリが出た』」

「聞きたくないんだが」

「アンコールは『ムカデとナメクジも出た』になっております」

「何なら金を払ってやる。帰ってくれ」


 帰ってくれ、と低い声で繰り返す赤井秀一の目には濃い隈が窺えた。常日頃より染み付いた隈を持ち歩いている男だが、今日の具合はまた一段とひどかった。

 趣味で使ってる愛用ギターのみ抱えて我が家から飛び出してきた私を出迎える様相としては、いまの赤井は余裕で赤点ぶっちぎりだ。いや赤井だけに赤点とかそういう駄洒落めいた意味ではない。先程挙げた隈を除いても、いまの彼はかなりひどい。一時間前にヒトを何人か殺してきた、と言われたらつい信じられてしまいそうな雰囲気を垂れ流している。

 ほとんど羽織っているだけのシャツも、どうにか両足通しましたみたいなジーパンも、どちらも皺だらけのよれよれ。シャンプーのCMに採用されそうなぐらい艶やかだったはずの長髪が、いまは強い湿地帯に飛び込んだくせ毛さながらにあちこち飛び跳ねている。こうして玄関口で私と対面しているだけでもしんどいのか、目付きの殺気は日頃の三割増しだ。

 ……ふむ、徹夜明けとみた。

 それを指摘してやると、赤井は一層うざそうに首を傾けた。


「そこまで分かっていて、まだ帰らないのか」

「帰らないんじゃない、帰れないんだ。誰がアンハッピーセット一式取り揃えられた部屋で寝たいと思う」

「蛆虫の湧いた倉庫に二晩泊まり込んだこともあっただろ」

「それは仕事だったから。金も出ないのに、なんであんな地獄の我慢大会に単独参加しなきゃならない」


 しかも、此度の我慢大会に優勝賞金きゅうりょうはないときている。尚更参加する意味はない。

 赤井は「勘弁してくれ」と目元を片手で覆った。大袈裟な溜め息までつきやがる。


が指摘した通り、俺は徹夜明けだ。二時間前、半年間追い続けたクソ野郎をようやくあげた、、、。家に帰って四日ぶりのシャワーを浴びられたのが、おまえがドアを叩くまでのことだ」


 それに関してはお疲れ様と言わざるを得ない。最近はめっきり同じ事件しごとに取り組むこともなかったが、彼は彼で忙しい日々を送っていたようだ。


「ふむ。流石、私。タイミング良い」

「どこが良いんだ最悪だ」

「四日もシャワー浴びてない男の匂いなんか嗅ぎたくないだろ」


 いまの赤井の頭じゃ難しいだろうけど冷静に考えろよ、とギターを持っていない方の手を振って付け足せば、彼の目付きに含まれる殺気の割合がぐんと増した。同業者で耐性のある私だから素で流せるけど、そこらのティーンならいまの赤井に睨まれただけで失禁不可避だろう。


「────ああ。ああ、そうだった。おまえはそういう奴だった」


 とても苦々しく吐き捨てて、赤井はジーパンの尻ポケットから皮財布を取り出した。段ボールでも解体するのかというほど気合の入り過ぎた手つきで荒々しく解放。そしてやはり乱暴に紙幣を掴むと、ほとんど投げ捨てるように私の額へ押し付けた。


「金だ。釣りは要らんから、とっとと帰れ。俺は寝たい。部屋も掃除できない奴など相手にしてられるか」

「いやだから帰れないんだって────」


 言いかけた私の口が止まる。押し付けられた紙幣に目が留まったのだ。


「────って、これ2ドル紙幣じゃん!? 今時珍しいなオイ!」

「そうかよかったな二度と来るな」


 我らが偉大なるトーマス・ジェファーソンの顔を傷つけない程度にぴっちり広げて矯めつ眇めつしていたら、その隙を狙われて赤井にドアを閉められそうになった。慌てて中身のギターごとケースを差し挟む。がごっ、と双方の意思が物理的に代理戦争を開始する音。

 私はギターケースで、赤井はドア。異種の鍔迫り合いだ。


「まあまあ同僚のよしみじゃん今晩だけ屋根を貸してくれよ」

「断固として拒絶する。今日は誰にも邪魔されず明後日まで寝る予定なんでな」

「さりげなく明日を除外してんじゃねーよ寝すぎだろ」

「生憎と、自室の清潔さも保てない女の言葉は耳に入らない体質でね」


 随分とご都合主義な体質だな、と私が言い返す前に、赤井はドアと壁の間に挟まっていたギターケースを蹴り出してしまった。そのキックの見事すぎる軌道ときたらプロサッカー選手ですら絶句ものだった。こんな真夜中の住宅地に顔を出しているのは、プロサッカー選手どころか私と赤井ぐらいだったけど。

 バタン、と無慈悲の音。呆然とする私の目前で、ドアが冷然と閉め切られた。


「しょ、正気かおまえ!? このギターケースにギターじゃなくてライフルが入っていてみろ! 暴発間違いなしだぞおい赤井! ヘイ、ミスター!? 赤井さーん!?」


 ドアに縋りついて何度拳で表面を叩いても、強盗さながらの勢いでドアノブをガチャガチャしてみても、内側からは物音一つ聞こえてこなかった。赤井の返事などあるわけもない。彼の忌々し気な顔が私を睨みつけてくるわけもない。完全無欠、掛け値なしに閉め出された。真夜中の住宅地に、私の遠吠えだけが虚しく響く。

 冷血な一面ところのある男だとは前々から思っていた。声に出して伝えてもいた。それでも、困窮した同僚を突き放すような奴ではないと信じていたのに……!

 こうなれば取れる策は一つ。いや銃があればマスターキー代わりにドアノブへぶっぱなして内部へ押し入ることもできたのだが、それはご近所に通報されかねないし、赤井とガチの殺し合いを演じることになる。ここはロアナプラじゃない、アメリカの凡庸な一角だ。手に取るべきは銃ではなく、ラブとピースなのである。

 ケースを開き、ギターを取り出す。空っぽになった中身には、赤井から貰った2ドル札を放り込んだ。

 ドアを背にして蓋をしたケースを上に座り、ギターを構える。暗譜したのが随分前だからちゃんと弾けるか不安だったけど、ビートルズの『The End』──断言しておくが、いまの私の立場と曲名を掛けたわけじゃない──そのイントロを数秒も奏でれば、後は指が勝手に動いてくれた。

 私の遠吠えが途絶える。真夜中にそぐわない、どことなく楽し気な曲が住宅地に流れだす。


「いいか、赤井! おまえがドアを開けるまで私はここに居座ってやるからな!」


 指は忙しいが口は暇なので、好き勝手に動かしてやった。


「おまえが開けなきゃ、そのうちご近所さんが『安眠妨害だ!』ってショットガン持ってやってくるだろうなぁ! そうなれば現役FBIこうむいんの無残な死にざまが全国ネットでお茶の間に届けられるぞ! おまえとの関係もマスコミがあることないこと盛り立てるだろうなぁ! どうせ痴情の縺れあたりに無難に仕上げられるだろうけどな! はっはっは────」

 ────は、と視界が反転。手元にあったはずのギターが頭上に浮かんでいた。思わず弦から指が離れる。赤井の幽鬼めいた面が目に入ってようやく、凭れていたドアが開けられたせいで身体ごと引っくり返ったのだと気付いた。

 後転の要領で赤井家の玄関に突入した私の顔面に、浮遊していたギターがどっしりと沈み込んだ。


「むぎゃ」


 鋭角が額へめりこんだ痛みで悶絶する私を一瞥し、改めてドアを閉め直した赤井は唾棄するように告げた。


「そこで寝ろ」








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