「誰がライオンと戦えと言った! 猫を踏め、猫を!」
「あっはっは、マスター。いったいどうやったらそんな音が出るのさ?」
……左右両側が、とてもうるさい。
カルデアの娯楽室にピアノがあった。あからさまな遊具というわけでもないその楽器は、娯楽室では些か浮いた存在だった。部屋に他の楽器はなく、そのピアノはいつも黙り込むように蓋を閉じていた。
手を伸ばしたのは、なんとなく、だったと思う。ヒトにきちんと説明できるような理由ではなかったはずだ。
カルデアに来る前、というか幼少のみぎりにうっかり鍵盤を踏み荒らした程度の素養だ。たとえピアノが調律されていても、まともな音色など鳴らせるわけもなく、野良猫の方がまだそれなりに音符をなぞれるのではないか、という具合の演奏。我ながらひどい出来栄えだとしみじみ思ったし、たとえマシュに乞われたとしても他人に聞かせはしなかっただろう。
娯楽室の外に聞こえないよう、努めて静かに一人で鍵盤を叩いていた。元々好き嫌い以前の行動。二小節もすればすぐに飽きてしまって、蓋を閉じて立ち去るつもりだった。
……いまこうして両側にいる、耳聡過ぎる音楽家たちさえ駆け付けてこなければ。
「だから! 何度言えば分かる! そこは低く! 高くなるのはそのあとだ!」
「いっそ僕はこれは革新的な演奏技巧なんじゃないかと思えてきたよ」
「そんなわけがあるか!」
左側からサリエリの怒声。
右側からはアマデウスの愉快がる笑い声。
いつもは一も二もなくアマデウスに襲いかかるサリエリも、どうしてかいまばかりはそれを我慢して私の指導に没頭していた。いつもは令呪かマリーの制止がなければ静まらない彼の叫声が、こんなことで収まるものだったとは驚きである。とはいえ、その代償に、かれこれ二時間以上ピアノを弾かせ続けさせられていることを思えば、けっして軽んじられるものではない。
鍵盤にはずっと私の指だけが乗っていた。たまにどちらかの手が、私のそれの上に被さるけれど、鍵盤に触れることはない。彼らはあくまで指導するだけ、ピアノを弾くのは私だと言外に伝えられていた。
「うぅ……指が……もつれる……」
知らず漏れた泣き言に、左側がボソリと応じた。
「……休憩するか」
「え、いいの? てっきりサリエリが満足するまで演奏させられるものとばかり……」
「マスターに才能がないことはよく分かった。これ以上無茶を続けても意味はないだろう」
「……すみません」
そりゃアマデウスやサリエリと比べられたら、私じゃなくても才能なんてありませんとも。
こちらの不満を見透かしたかのように、アマデウスがケラケラ笑う。
「拗ねることないぜ、マスター。僕と比べたら、どいつもこいつもどんぐりの背比べなんだからさ」
「そういうところだ、アマデウス!」
すかさずサリエリが噛み付いた。しかし、その程度でアマデウスの笑顔は消えない。
鍵盤から膝の上に指を移動させる。意識して大きく息を吐き出して、呼吸を整えた。体力はある方だと思っているけど、演奏なんて慣れないことをしたせいだろう。普段の運動とは違う部位の筋肉を使ったし、精神的なものもあって、いつもよりどっと疲れた気がする。
「マスター、少し待っていろ。食堂でココアでも貰ってきてやる」
にこにこ笑い続けるアマデウスを忌々しげに睨みつけたあと、サリエリは舌打ちした。颯爽と踵を返し、娯楽室から出ていこうとする。
「あ、ありがとう」
「礼などいい。それより、どうすればもっと上達するかを自分なりに考えておけ」
「……つまり、休憩が終わり次第、練習再開ってことですね……」
その通りだ、とサリエリは怪しげに笑って、部屋を出ていった。
そんな彼を見送ってから、アマデウスが三日月型の目で私を見下ろした。
「マスターがこんなにピアノが下手だなんて、いままで知らなかったよ。もっと早くに教えてくれたらよかったのに」
「教えるつもりなかったし……」
サリエリの指導を受けてよく分かった。私の演奏技術は、そもそも上手下手の評価ラインに乗ってすらいない。演奏として成り立っているかも危ういものだ。
「アマデウスが弾けばいいんだよ」
我知らず口が尖った。
「私よりずっと綺麗な音が出せるんだろうし。サリエリだって、アマデウスの演奏が聞きたいと思う」
「それは半分当たりで、半分ハズレだよ。マスター」
思わぬ返答に顔を上げる。
依然アマデウスは猫みたいな顔で笑っていた。
「どういうこと?」
「確かにサリエリは僕が演奏すれば泣いて喜ぶだろう。でも、いま彼が聞きたいのは、僕じゃなくてきみの演奏なんだと思うよ。きみが弾くことに意味があるのさ」
「こんなに下手なのに?」
アマデウスが大声で笑った。
「まさか僕に並ぶつもりだったの!?」
「……そういうつもりで言ってないから」
サリエリがいたら、本日二度目の「そういうところだ」が飛んでいた場面だったろう。
アマデウスは目尻の涙を拭って、いかにも愉快げに肩を揺らした。
「下手なのに、じゃない。下手だから、だよ。きみの演奏はきみだけのものだ。天才の僕が弾いたところで、それは僕の演奏であって、きみのじゃない」
「そりゃそうだよ」
「きみが弾くんだ。マスター」
アマデウスが鍵盤を指し示す。
彼はやはり笑っていた。楽しげに、どこか儚げに。
それでいて、少しだけ満足げだった。
「きみの音楽は、きみだけが奏でられる」