キリシュタリア・ユーチューバー・ヴォーダイム
「チャンネル登録よろしくね」じゃないんだよ。
そう思いながらも赤いボタンをポチッとしてしまったのは、彼の魔術によるものだ。きっとそうだ。そうに違いない。そうじゃなければ自分の行動に説明がつかない。
スクロールバーが右端まで行き着いて、画面は薄暗くなっていた。
彼の姿はもう見えない。
もしやいままで自分が見ていた光景はすべて夢だったのかと期待しそうになったところ、依然液晶から滴っていた珈琲に現実へ引きずり戻される。
他ならぬ自分が、驚愕のあまり吹き出した液体の残滓。
……あぁ、夢じゃないのか。
キリシュタリア・ヴォーダイムがYouTuberになったなんて、そんな馬鹿げた話なのに。
たしかに平々凡々な魔術師なら、研究のための資金繰りをあの手この手で解決する必要がある。インターネットだって、使えるなら立派な手段だ。活用するのも分からなくはない。
だけど彼はそうじゃない。
キリシュタリア・ヴォーダイムが平々凡々なら、この世の魔術師は九割方、取るに足らぬ羽虫になってしまう。
研究の資金繰りに困るような家柄でもなし、こんな突飛な手段を選ばねばならないほど才能がないわけでもなし。
いったい、彼はどうして「チャンネル登録よろしくね」なんてやっていたのか。
こんこんと思考を並べているうちに、もっともそうであってほしくなかった線に辿り着く。
………………趣味では?
思わず頭を抱えたのもむべなるかな。
だってキリシュタリア・ヴォーダイムだぞ! 天体科の主席! 千年単位で続いているヴォーダイム家の次期当主! 時計塔に十三番目の学科を新設することさえできるだろう才能の持ち主が!
……なんで、YouTuberなんか始めてるんだ。
凄まじい無駄遣いだ。彼の才能も時間も行動も、すべて有益に使われるべきなのに。
なんで、こんな──今時の小学生より編集下手な動画なんか上げてるんだよ!
最初の「これカメラ動いてる?」とかカットしろよ! なんでそのまま使ってんだよ! おかげでやたら綺麗な顔面がドアップなんだよ! コメント欄に道を踏み外しかけた奴が何人か出ちゃってるだろうが! 「キリちゃん」とか気安く呼ぶなクソ一般人共が! 『キリシュタリア様』だ! 本来おまえらがお目にかかれるような存在じゃないんだよ……そのはずなんだよ!
……数分の動画を一本見ただけなのに、ドッと疲れた。
こんな動画をオススメに並べてきたYouTubeには、さすがに殺意を覚えざるを得ない。教えないでくれよ。知らなきゃよかった、こんなもの。……見覚えのある金髪だなあ、と何も考えずサムネをクリックしたこちらにも非はあったかもしれないが。
こんなもの、他の奴に見つかったらどう使われるか……天体科の威厳さえ落ちかねない……。
……知らず、自分は彼の動画を通報していた。
翌日。
時計塔の一角で、タブレット端末を睨みつけてうんうん唸っているキリシュタリア・ヴォーダイムを発見してしまった。
……巡り合わせが悪すぎる。よりにもよって、あんなものを見たすぐ次の日だなんて。
いつもなら彼が何をしていようと「天才のやることなんて分からない」と意識に入れさえしないのだけど、今日ばかりは分かってしまった。
彼の独り言が聞こえてしまったのだ。
「あれ。動画が壊れてしまったのかな」と。
……頭が痛くてたまらない。
体調を回復させるべく魔術回路を励起させるが、頭痛は一向に収まらない。なるほど、これは精神状況が反映されているだけか──つまるところ、気のせいか。
このまま放置しておけば、いつか他の者の目にも彼のふざけた戸惑いは目撃、あるいは聴取されてしまうだろう。
それを、防ぐ、には…………。
………………。
………………。
………………。
「……キリシュタリア様」
前代未聞の葛藤の末、彼に声をかけた。
「なんだい」
彼は滑らかに振り返った。もしかしたら、自分が後ろで立ち止まっていたことも、最初から気づかれていたのかもしれない。
「あの。失礼ながら、お声が聞こえてしまって」
「……独り言を聞かれてしまったのか。それは少々恥ずかしい」
キリシュタリア・ヴォーダイムは手にしていたタブレット端末に目を落とした。
「しかし私だけでは、もはやどうにもならない……。きみはコンピューターに強い方かい?」
「嗜む程度なので、ご期待に応えられるかどうかは分かりません」
「構わない。知恵を貸してくれ」
彼は端末の画面を見せてきた。
映っていたのは、昨日私が通報したあの動画が視聴不可となっている様子だった。
「動画が壊れてしまったんだ」
実家の祖母を思い出した。「あのね、メールが壊れちゃったの」……彼の言葉は、完全に祖母と同じニュアンスだった。
「……その、申し上げにくいのですが……おそらくこの動画は通報されて、ですね……」
「通報? どこに?」
「運営ですね……」
「私には何の一報も届いていないよ?」
「そういうものなので……」
おそらく通知のメールぐらいは届いているはずだけど、この状態を見るに、彼が確認していない可能性は大きい。
「誰かの目障りになってしまったのか……何がいけなかったのだろうか……」
彼はしょんぼりと俯いた。
「先日書き上げた魔術論文を、誰にでも分かりやすく説明しただけだったのに……」
それそれそれそれそれ。
……とはさすがに言えず、ぐっと我を抑え込む。
「キリシュタリア様ほどの方が関わっていらっしゃると、悪意を抱く者もいるでしょう」
「私が出演していたのがいけなかったのか」
「貴方はとても有名ですからね。妬み僻みを抱えた不調法者も、少なからずいるかもしれません」
「そうか……」
では、もうやめよう。
──自分の想定では、そうなるはずだったのだ。
「顔出しはダメなのだね」
彼は何を納得したのか、頷いて。
「次は声だけに切り替えて……声色も魔術で変えた方がいいかな。話す内容も考え直さなくては」
「……あ、あの。キリシュタリア様?」
彼はやっと自分の存在を思い出したように、こちらを見た。
「きみはとてもコンピューターに詳しいんだね」
「い、いえ。とんでもありません」
「よければ、今後その力を貸してくれないかな」
「…………はい?」
「私と動画を作ってほしい」
昨日は液晶に珈琲を吹きかけた。
しかし今日この場にはどちらもなく。
結果、自分が腰を抜かしただけだった。