親戚の親戚の親戚のそのまた親戚──要するにほぼ他人。
にとって五条悟の存在はそうとしか定義できなかったし、彼に連れてこられた高専で知り合った者たちに対してもおおむね同じ認識しか持てなかった。「レアな術式だとお互い苦労するねえ」なんて訳知り顔で絡んでくる五条が高専でもとりわけ特別な一人だったこともあり、が周囲から浮くまでさほど時間はかからなかった。
とはいえ、それ自体はさして問題でもなかった。
は単独行動を苦と感じない人種であり、また賑やかなのを望む嗜好でもなかったからだ。
……彼女に自覚はなかったが、「私より弱い人に群がられても邪魔だし」という態度で同級生に接する姿は一時の五条悟に瓜二つで、高専の一部教師たちは「五条の血筋は皆ああなのか」と頭を悩ませていたほどである。
その日も、は一人で高専の敷地を歩いていた。
事あるごとに親戚面して飛びついてくる五条にだけは見つからないよう慎重に、校舎内の階段を無音で上がる。その気配があまりに空気に溶け切っているので、不運にも彼女と行路が重なってしまった行きずりの人々はいずれも幽霊でも見たかのようにギョッと顔を歪めた。
は階段を上りきり、廊下の角を曲がったところで、うっかり人とぶつかりそうになった。
「……すみません」
足音を殺しきるのもそれはそれで面倒が生まれるな、とは若干の面倒臭さを覚えながら顔を上げた。途端、おもいきり顔を顰めた。
「あ、五条さんの!」
「です」
間違っても五条ではない、と強調する意味合いで、食い気味に言い返す。
「知ってるよ?」
笑いながら、不思議そうに首を傾げられた。
意味がまるで通じていない。は胸中で苦虫をすり潰されつつ、どうにかこの人を言いくるめてくれないかと縋る視線を、先程ぶつかりかけた人物に向けた。
七海建人は以上に面倒臭さを隠そうとしていなかった。共に歩いていたはずの灰原からも距離を置いて、一人そそくさと逃げ出そうとしていた。
「ちょっと」
はその腕を遠慮なく引っ掴んだ。
「先輩の管轄ですよね、あの人」
「知りませんただの同級生なので」
「えー! 僕と七海って親友じゃん!」
冷たいこと言うなよ、と逆側の腕を灰原が掴む。
チッ、と廊下に響く七海の舌打ち。
これなら自分が手を離しても逃げられまいと、は七海を解放して一歩下がった。
「灰原先輩。何度も言っていますが、私はです」
「でも五条さんの親戚なんでしょ?」
「親戚の親戚の親戚のさらに親戚です。血筋的にはほぼ他人です」
「でも血は繋がってるんでしょ?」
否定しきれない質問で攻めてくるあたり、天然物特有の意地悪さだ。
「……あの人とセットで扱われていい利点なんて一つもないんです。本当にやめてください」
「そうなの?」
「任務先で目標の呪霊を祓って一安心、という矢先に『フハハ貴様には五条悟を倒すための人質になってもらう!』と現れる呪詛師をサービス残業で捕まえなければいけない苦労とか、分かります?」
「分かんないけど、大変だね!」
朗らかな灰原の横では、七海が痛ましい生き物を見る目になっていた。同情するなら助けてほしいと心底思う。たとえ自分が五条に保護されなければどうなっていたか分からない身の上だったとしても、イヤなものはイヤなのだ。
「とにかく、私を『五条さんの』とかあの人と紐付け登録するのはやめてください」
「そんなインターネットみたいに」
「それぐらい知恵袋以下だって言わせるおつもりなら言ってあげますが」
「うーん。ごめんね、次から気を付けるよ」
……というやり取りを、と灰原はかれこれ何度も経ている。それでもなお、いまのこれ。はたして改善される見込みが本当にあるのかどうか、は若干自信がなくなってきていた。
「さん。あなた、どこかへ行かれる予定だったのでは?」
「あ」
七海からやんわりと促されて、そういえばそうだった、とは目を瞬かせる。
「そうでした、任務の報告に行かなくちゃ」
「一人で?」
キョトンとした顔の灰原に「はい」と躊躇わず頷き返す。
「まだ一年生でしょ。一人で任務行ってたの?」
「そうですが」
「ペアの人とかは?」
「いても足手まといになるだけなんですから、私一人の方がいいでしょう?」
は事もなげに小首を傾げる。
うわあ、と口を引き攣らせたのは七海で、そんな彼の肩を掴んだのは灰原だった。
「やっぱりめっちゃ五条さんだよ! ねえ七海!」
「こっちに同意を求めないでください」
「だからあの人と関連付けないでください」
は溜め息を吐き、爪先の向きを整えた。
「……じゃあ、そういうことなので。お疲れ様です」
申し訳程度に頭を下げ、は二人の横を通り抜けた。
残された二年生二人は顔を見合わせることなく、慣れた様子で言葉を交わす。
「あの子、いま何級だっけ」
「このまえ五条さんから『準一級に上がった』と聞かされた気がします」
「やっぱり五条さん並の才能だよね。あと性格」
「それ聞かれたら今度こそ術式で殴られますよ」
「、付き合ってよ」
美青年からそう言われれば、年頃の女子高生であればすわ交際の誘いかと心弾むものなのかもしれないが、にとって五条悟からのその言葉は死刑宣告に他ならなかった。
「イヤです」
の「イ」を発せられたかどうかも怪しい。
というのも、五条は言うが早いかを小脇に担ぎ上げ、そのまま校舎の窓から飛び降りたからである。二年弱も振り回されていれば、このほぼ他人の親戚の蛮行には抗うだけ体力と気力の無駄遣いだと脳が理解してしまっているから、ゴミの日に集積所へ投げられるゴミ袋よりも荒々しく移動用の車の後部座席に放り込まれても、は「ああ、またか」と遠い目をして引っ繰り返っていた。
より一歩遅れて、五条も車内に飛び込んできた。今日の補助監督は無愛想なのか、挨拶も「発車します」の一言もなく、二人を乗せた車が動き出す。
「どこ行くんですか」
引っ繰り返ったまま、は尋ねた。
「山奥。二時間ぐらいかかるかな。、寝てていいよ」
「……………………」
本気で言っているのかと疑う目つきを五条に向ける。
いまの彼が纏う雰囲気はひどくひりついていた。とてもではないが、手負いの獣より危うい存在を目の前にして、素直に目を閉じる気にはなれない。自分より強いと分かっている相手なら尚更。
「何かあったんですか」
眠ることもできず、さりとて暇潰しの術もなく、は他意なく尋ねた。
「ああうん」
五条がおもむろに答える。実感は薄そうに、又聞きした他人の世間話をそのまま垂れ流すように。
「灰原が死んだって」
「……え」
は驚いた。
自分が驚いたことに、また驚いて、握っていたはずの言葉を滑り落とした。
「で、僕が代わりに任務を引き継いだ。はその手伝いね」
「……そうですか」
裏返ったら動けなくなる亀の心境が分かってしまった。
二級呪霊の皮を被った、産土神信仰の暴走。
は事件の概要をそうまとめた。
灰原と七海が討伐するはずだった呪霊は二級相当で、彼らなら苦戦しようもない相手だった。まずかったのは場所柄だ。その土地には古くから産土神信仰が根付いており、御神体として神像を祀る神社まであった。それが災いした。
神像と二級呪霊、二つの姿形がひどく似通っていたのだ。
紛れもなく偶然の産物だったが、信仰ごと神像を取り込んだ呪霊がその力を増幅させたことまで「偶然」の一言で片付けることはできない。
「……大きいですね」
「呪霊っていうかもう怪獣だよね」
曇り空、見晴らしのいい崖の上。
と五条は並び、同じものに視線を注いでいた。
山村に陣取る、巨大呪霊。六階建てのビル相当の全長は、動くだけで災害に等しい。
こちらの視線に気付いていないはずはないだろうに、それでも襲い掛かってくる気配がないのは、自らの力が状況を限定されたものだと理解しているからか。だとしたら知能も相当量増幅されている。あの土地から少しでも離れてもらえれば労力も省けたのだが。
「どうします?」
「いつも通りでいいしょ。が遊撃、僕が王手」
「私の負担、重くないですか」
「だとアイツ殺せても消し飛ばせないじゃん」
「…………やりますよ、やればいいんでしょ」
はうんざりと首を振った。
散歩にでも赴くように、あまりにも気安く、崖の上から飛び降りる。
まもなく落下死するはずの少女は、慌てもせず、ただ一言呟いた。
「───清姫」
少女の肉体が変貌する。
小さな人を捨て、大蛇のような龍に至る。
龍は重力を無視して宙を泳ぎ、巨大呪霊へと絡みついた。
牙と爪と図体、自らのすべてをもって呪霊を押し倒す。
質量と質量のぶつかり合いに、自然ならざる地震が起きた。
ぐるりと巻きついた龍は呪霊の抵抗を意に介さず、上空へ投げるように軽く放り投げた。
龍の姿が掻き消える。
浮きあがった呪霊の真下。少女の姿を取り戻した呪術師は、また一言を口にした。
「───橋姫」
瞬間、少女に鬼が宿る。
「はああああああ───ッ!」
メキリと額から伸びた角が示すように、尋常ならざる膂力をもって、重力に従い落ちてくる呪霊を下からおもいきり蹴り飛ばす。
今度こそ、呪霊は空へと舞い上がった。
それを待ち受けていたもう一人の呪術師は、狙いすませた指を伸ばす。
「茈」
そうして、呪霊は音もなく掻き消えた。
全身が無に帰したから、下で呆けていても落下物に見舞われる心配はない。
はぼんやりと空を見上げて、こんなものか、と思った。
こんなものに、あの人は殺されたのか。
呪術師に“死”は付き物だ。身近な人間の死なんて、そう珍しいものじゃない。
分かっているから──受け止めかねた。
いままで幾度となく触れ合ってきた相手の死が特別でないなら、呪術師はいったいどうやって悲しみのよすがを得ればいいのだろう。
五条が迎えに来るまで、そうしていた。
最後まで空は濁った色のままだった。
けれど雨は降ってこなかった。の頬が濡れることもなかった。
「私、自分が思ってたより先輩たちのこと好きだったのかもしれません」
の言葉に、静養中の七海はベッドの上で呆然とした。
「灰原先輩、わりと貴重なタイプだったんですよ。私に臆さず話しかけてくるあたり。あの人が死んだって聞いて、……なんだろう。すごく驚きました。それから力が抜けました」
目を見開いた彼の様子に気付いたふりもなく、彼女はシャリシャリと膝の上で林檎の皮を剥いていた。それをじっと見下ろしたまま、彼女は訥々と言葉を紡いでいく。
「もしかしたら、恋だったのかも」
少女の手元でくるくると回るたび中身が露出していく林檎に、七海はなぜか自分を重ねた。
「……それを言われて、こっちはどうしたらいいんですか」
もう灰原はいない。
彼女のそれが本当に恋だったとしても、今更どうにもなりはしない。
「別に、なにも」
ただ、とは剥き終えた林檎を並べるための皿を手に取った。
「七海先輩。死んだら呪霊になってくれませんか」
「……は?」
「そしたら私が祓うので」
「……あなた、何を言ってるんですか」
呪術師が呪霊の誕生を願うだなんて、冗談にもならない。
は林檎の乗った皿を七海に差し出した。去り際にひとかけら盗み出し、シャクリとかじる。
「灰原先輩を殺した呪霊、私とあの人であっさり祓いました」
「……あなた達二人がかりならそうでしょうね」
「腹が立ったんです。あんなものに殺されたのか、って」
少女は凪いだ湖面のような目で七海を見据えた。
「私やあの人が苦戦する相手ならよかったのに。私が殺されるような相手ならよかったのに。だって、それなら灰原先輩が死んだのは仕方ない。強い相手に負けるのは当たり前だから」
なのに、と彼女は続ける。
「……あんなに、弱いだなんて。あれじゃあ、まるで彼の価値がその程度だったみたい」
「───あなたは」
七海はに向き合った。
彼女の、何もない表情に向き合った。
「本当に灰原を特別に思っていたんですか」
「そう思います。たぶん。……分かりません」
「彼が死んで、笑いましたか」
「いいえ」
「彼がいなくなって、泣きましたか」
「いいえ」
じゃあ、と七海は部屋の扉を指差した。
「あそこを開けて、いまにも笑顔の灰原が飛び込んできそうだと思いますか」
「…………」
は示された扉を振り返り、自分でも確かめるようにゆっくりと頷いた。
「そうですか。……私もです」
戻ってきたの視線と目を合わさぬまま、七海は話の穂を接いだ。
「同じですよ。彼が残していった空白を、我々はまだ受け止めきれていない」
「……七海先輩は、泣きましたか」
「いいえ」
「笑いましたか」
「いいえ」
「灰原先輩が帰ってくるんじゃないか、って思いますか」
「はい」
「じゃあ──同じですね」
は林檎の最後の一口を噛んで、嚥下した。
その咀嚼音に導かれるように、七海は彼女と目を合わせた。
「……泣いてるじゃないですか」
「泣けるもんですね」
「いや泣けるもんですねじゃな、シーツで顔を拭くな!」
「七海先輩も泣いてるじゃないですか」
「これは……雨です」
「室内ですけど」