「今吉くん一回戦敗退おめでとーっ!」
「……どうもぉ」
今吉翔一には苦手な人物が一人いる。
というクラスメートだ。
今吉が桐皇に入学してから出会った彼女は、当初こそ天真爛漫なだけの女子であった。しかし三年間も同じクラスが続くと、の根本の片鱗ぐらいは覗けるようになってきた。
アホなのである。
青峰とか若松とは別ベクトルで。
勉強はできる。何故かできている。今吉に中学時代の後輩を彷彿とさせるほどだ。
教室にて。
自席で読書に勤しんでいた今吉は、知らず口角を引きつらせていた。
「これで引退になるの? 大学でもバスケやるの? あ、読書中だった?」
「……どれから答えたらええ?」
「今日のお昼ご飯を教えてほしいかな!」
文庫本に栞を挟んで閉じる今吉。ぼそりと「焼きそばパン」と答える。
は今吉の机に身を乗り出して「奇遇だね! 私はおにぎりだよ!」とあっけらかんと笑う。どの辺が奇遇なのか今吉には理解できない。炭水化物という点だろうか。広範囲過ぎてもはや奇遇ではないような気がする。
「そういえば今吉くんのこと、諏佐くんが探してたよ! さっき教室来てた! 『今日も一緒に勉強会しよう』って言ってたよ!」
「そうなん? 何で声掛けてくれんかったんやろ」
今吉は首を傾げる。今日は登校して以来、まだ教室の外には出ていない。諏佐とすれ違う機会はない筈なのだ。
対し、は明るい笑顔のまま頷いた。
「そりゃまあ、諏佐くんが今吉くんを見つける前に私が『今吉くんいないよ』って言っちゃったからね!」
「自分のせいか」
「うん! ごめん! 気付かなかった!」
いないと思ったらいた、と彼女は臆面もなく言い放つ。
無邪気そのもののの様子に怒る気も失せて、今吉はやれやれと溜め息をつく。自分のものでもないのに我が物顔で今吉の前の席に腰を下ろし、が「それよりさ」と話の向きを変えた。
「バスケ、やめちゃうの?」
「……何でそう思うん?」
今吉が意味深な笑顔で聞き返すと、は気を害した様子もなく「うーん」と顎に人差し指を当て、僅かに上を向いた。
「何となく」
――これだから、今吉は彼女が苦手なのだ。
根拠も証拠もないのに、確信をもって今吉しか知らない秘め事を見つけ出してくる。
諦めるには良い節目だ。自分にはバスケの才能はなかった、けれど楽しい思い出だったと。大学進学を大義名分に、煤けてしまった情熱を綺麗にラッピングしてしまえばいい。
「自分はどうするん? もう弓道部も引退したんやろ」
今吉は是非の代わりに、に問い返した。無自覚無責任に他人を振り回す性根ながら、驚くべきことに彼女は夏まで弓道部の部長を務めていた。副部長の男子が胃痛に苦しまされていたことを知る同級生は少なくない。
質問をはぐらかされたことに気付いていないわけでもないだろうに、はそれに執着する素振りを一切見せず、澄み切った目で今吉を見つめ返した。
「私? 実家に戻って家業継ぐよ」
「……何や、初耳やなぁ。三年も同じクラスやったのに、んとこに家業があったなんて知らんだわ」
「だって今吉くん、今まで訊いてこなかったじゃない」
だから言わなかっただけ、と彼女は椅子から下がった足をぶらぶらさせた。
「家業って、何してるん?」
「人柱」
「……は?」
聞き間違いだろうかと今吉が怪訝な顔をすると、は「現代版だけどね」と付け足した。
そこで、はたと思い出したように「あ」と漏らし、彼女は今吉の鼻先に人差し指を突き付ける。
「そーじゃんそーじゃん! 今吉くん、バスケで御当主様に会ってる! うちの家系って本家分家の隔てなく、あそこの家に人生捧げるのが宿命なのよね」
「……それだけ聞いてると随分時代錯誤やなあ。ちゅーか、御当主様って誰やねん?」
の言から推すに、バスケ関係で今吉が出会った人物なのだろうけど、生憎と心当たりが多すぎる。青春の大半を捧げたバスケットボールが今吉にもたらしたモノは、思い返せば多すぎた。歩いてきた道は長くも太くもないのに、振り返ればあれもこれもと残っている。知らず今吉の目が一層細くなった。
はそれに気付くこともなく、明るく言い放った。
「赤司征十郎!」
「……は?」
「うち分家だから、本家みたいに御当主様の面倒は見なくてよかったんだけどさー。いやー、本家だったらやばかったね。年も近いし、絶対あの子の鞄持ちにさせられてた」うんうんと一人頷いてから。「そろそろ家に戻って、赤司家の為に尽くせって親が五月蠅くて! ま、入学するときの約束だったから仕方ないかなーって」
赤司征十郎――直近のW・Cでは当たることがなかったけれど、強豪洛山高校の主将である。
彼に――彼にではなくとも、赤司家の為にはこれからの全てを費やすというのだろうか。
「本家の子に比べれば、結構自由にさせてもらったからね。もう弓はできないだろうけど、まあ、それ以外に悔いはないし! 今吉くんの眼鏡を指紋だらけにしたときが今年一番楽しかったね!」
「指紋まみれ事件は今でも許してないで」
忘れ切っていた筈の怒気が首をもたげてきて、今吉は慌ててそれを押し殺した。
「……じゃ、、大学はどうするん」
「行かないよ? さすがにそこまで執行猶予残ってないもん」
ムリムリ、とは気軽そのものの様子で手を振った。魚は空を飛べる、と力説されたならば、ヒトはこんな風に否定するのだろう。
「――だから、勝手なんだけどさ。今吉くんにはバスケ続けてほしいなぁって」
今吉は思わず目を瞠ってしまった。
がこんなにも落ち着いた笑みを浮かべるのを、彼は三年間で初めて目の当たりにした。
「今吉くん、たぶんバスケやってないと死んじゃうし」
「……死なへんわ」
「身体はそうかもね。でも、心はきっと死んじゃうよ」
ふっ、と。
の顔から笑みが消えた。
「好きなことできないのって、すっごく辛いよ。――もしかしたら、身体も死んじゃうぐらい」
そのとき、予鈴の鐘が鳴った。一時的に各教室や廊下が騒がしくなる。
彼女はいつもの明るい笑みを浮かべて「それだけだよ」と言って、自分の席に戻っていった。
今吉はかつて見たことのないの姿に呆気に取られてしまって、何も言えなかった。