「おやおや、完食ですか。よほどお腹が空いていたんですねェ」

「あっ、恩人さま! このたびはひもじい思いをしていた無一文を助けてくださり、ありがとうございます……! いつの間にか迷子で……お金もなかったので飢え死にするところでした……! 恩人さまがいなければ私は間違いなく死んでいました本当にありがとうございます……!」

「カカッ、恩人だなんて大袈裟ですねェ。私はただザクロを差し上げただけですよ。どうぞ親しみを込めてアラスターと呼んでください」

「アラスターさん! ありがとうございます! ……え、ここ外国なんですか? ヤバ、パスポートとか持ってな、」

「地獄です」

「え」





   ***





『よもつへぐい』をご存知だろうか。

 あの世のものを食べると、この世には戻れなくなる。そういう話だ。よもつへぐい自体は我が国の言葉だが、似た話は世界中にある。たとえば、空腹に耐えきれず、ザクロを口にしてしまったペルセポネ──なんてギリシャ神話。

 ペルセポネは十二粒の内、六粒だけだったから、一年の半分だけ冥界にいることで許されたらしい。それ、完食だったらどうなったんだろう。私みたいに「えーと……ちょっと持ち帰って上司と相談しますね」なんて対応を天使にされて早三ヶ月とか経過したんだろうか。南無三。


「あァ、ここにいましたか」


 ひょい、とマイクステッキを膝に引っ掛けられて、強制的に振り返らされる。危うく雑巾片手に転ぶところだった。


「そろそろ散歩に行こうかと。アナタもチャーリーに買い出しを頼まれていましたよねェ。ご一緒にいかがですか?」

「……はい。よろしくお願いします……」


 ホテルの掃除、一時中断決定。

 思い通りの承諾がよかったのか、アラスターはいかにも満足そうに笑った。いや、このひとはいつもいつでも笑っているのだけど。

 私を助けてくれた恩人兼私を地獄に閉じ込めたクソ野郎。それがアラスターという悪魔である。なおこれは私が人間であるように、彼は悪魔という種族らしいので、マジで比喩とかではなく、ただただ本当の悪魔を紹介しているに過ぎない。

 そんなひとと行動を共にするのはいろいろ複雑なのだけど、背に腹はかえられないのだ。

 なにせここは地獄。本当に地獄。日常的にヤクと銃弾飛び交う殺人無法地帯。防衛の術ひとつ持たない私がうっかりひとりで彷徨こうものなら、ものの三秒で食い物にされかねない場所なのだ。比喩抜きで。

 とりあえずアラスターは私の事情を知っており、現時点で加害意思はなく、共にいたらたぶん死なない程度には面倒をみてくれる存在である。……欲を言えば同行するならチャーリーやヴァギーがいいのだけど、彼女らばかりを頼るわけにもいかない……!

 アラスターのあとについてホテルを出る。赤い背中と規則的なステッキの音を追いかけていけば、町の人混みでもはぐれることはない。
といっても、アラスターと一緒にいるだけで人混みは向こうから私たちを避けてくれるのだが。


「今日はアナタがキッチンに? なら私もご馳走になりましょう。一人分追加でお願いします」

「……家庭料理がお気に召したようでよかったです」


 何もできることがなくて申し訳ないから、とチャーリーに頼み込んで一回限りの約束でやらせてもらった食事当番は、なんだかんだでもう十回を超えた。

 海外のひとはあまり食にこだわりがないと聞くけど、一度舌に合えばそれなりにリピートしてくれるものらしい。いまのところ、ホテルの面々は私の料理をそれなりに気に入ってくれているようだ。家庭料理とはいえ、このあたりでは和食が物珍しいというのもあるかもしれない。


「それでは今回の甘味料は控えめに。少なくとも私の分は」

「留意させていただきます……」


 うう、一人分だけ違う味付けにするの面倒だ。でも命には代えられないし。アラスターがいますぐ甘い物好きになってくれたらいいのに!


「……あ」


 どういう手順で調理を効率化するか考えていたら、正面に嫌な影が見えた。

 アラスターの背後に隠れようとして、しかしそれを目ざとく察知したアラスター本人に阻止された。肩を掴み、彼の前に押し出される。


「どうかなさいましたァ?」


 耳元でわざとらしく囁かれた。見えないけど分かる。アラスターはいま間違いなく満面の笑みだ!


「いや……えっと……」

「いたァ! ホテルの人間!」

「ヴァレンティノがおまえで撮るって聞かねえんだ、来い!」


 そうこうしているうちに、嫌な影もといヴァレンティノの部下たちが私を見つけてしまった。逃げようにも背後のアラスターに押さえつけられているので動けない。私は仕方なく彼らに向き合った。


「そ、その話は以前にもお断りしました」

「昨日はダメでも今日はイケるだろ!」

「そんな根性論でどうにかしようとしないでください……!」

「とにかく来いって! じゃないと俺らがヴァレンティノにやられんだよ!」

「そこは本当にお仕事お疲れ様なんですけど、私もあの、譲りたくない一線はあってぇ……!」


 人間というだけでおもしろがられて、ポルノに出る羽目になるのは、絶対に嫌だ!


「おやおやおや、いつもチャーリーにできることはないかと聞いているのに。彼らのお願いは聞いてあげないんですかァ?」

「このひとたちはチャーリーみたいに善意で私の衣食住を考えてくれないんですぅ……!」

「ゲ、ラジオデーモン。アンタこいつの何?」

「何とは? 我々は何でもありませんよ。ねェ?」

「そこは嘘でも友達とか言ってくれませんよね知ってましたぁ……!」

「ならいいか。邪魔すんなよ、アラスター。俺らも仕事なんだよ」

「あっ……!」


 部下のひとりに腕を引っ張られる。悪魔の力に、人間の私が敵うわけもない。あっという間にアラスターからも引きずり離されて。

 ……直後には、アラスターの操る影が部下たちをまとめて宙吊りにしていた。私ごと。


「仕事はお互い様。こちらもホテルの買い出しがあるので、そろそろ失礼いたしましょう」


 トン、と地面を叩くラジオステッキ。

 影がうねる。ギュイ、と捻れてまとまる大きな柱。それが力強く身を捻り、捕らえた部下たちをバットよろしくカキーン、カキーンとどこかへ打ち出していった。ものの三秒ほどのことだった。

 はたして、アラスターの影に宙吊りにされているのは私だけになった。


「……助けていただいてありがとうございます。ところでそろそろ下ろしていただけると幸いです」

「おやおやァ? それがトモダチに対する態度ですかァ?」


 さっきは何でもないとか言ってたくせに、本当になんなんだこのひと。


「……ありがとう、アラスター」

「はい」


 私の足を優しく地面に下ろしたのち、シュルン、と主人のもとに帰る影。その主人はといえば、さも愉快そうに笑っていた。友達が楽しそうでよかったです、とか言えばいいのかな。






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