……めちゃくちゃ、忙しかったのだ。
ただでさえ東京サミットのあれそれで平時より過剰な仕事量で、それにテロ事件の捜査まで加わって、しかもそのテロの犯人が一時は小五郎さんになりかけて、公私ともにてんやわんやで。
事件捜査の合間に身内の無実を証明できる案件をめくらめっぽう探し回る、激動の日々だった。睡眠どころか、ろくに飯も摂っていない。
端的に言うと、四徹である。
それでもなんとか事件は収まり、小五郎さんは無実で解放。真犯人も無事に逮捕された。後始末もひと段落ついた頃、同僚たちはまだ市民の誘導にいそしむ中、私だけが上司の目暮警部に肩を叩かれた。
「くん、もう帰りなさい。顔が酷い」
慈愛の目であった。しかし口振りはまったく容赦なかった。
上司に帰宅命令を出されてしまっては、私も二言三言食い下がるくらいしか出来ず、やむなく帰路につく流れとなった。食い下がっているときに目暮警部から「きみも毛利くんのために日夜関係なく動いてくれていただろう。ほとんど寝ていなかったことも知っている。くんだけが先に帰っても、文句を言う奴は一人もいないよ」などという、思わず拝みたくなるほどありがたい説法を垂れ流されたような気もしたが、エナジードリンクの飲み過ぎで麻痺した頭は結局なにも覚えていないのだった。
ぼんやりと「はあ。分かりました。帰ります」と頭を下げた。ふらつく足で車に乗ろうとしたら「それはまずい!」と高木に止められた。美和子ちゃんが「高木、送っていきなさい。命令」と言って、同僚一同『高木なら安心だ』という感じの空気になって……ダメだ、そこまでしか思い出せない。高木が運転する車の助手席に座った瞬間、意識が飛んだんだろう。
「さん、家着きましたよ」
「………………うん。ありがとう」
それでも高木が掛けてくれた声で目を覚まして、再び美和子ちゃんの下へ向かう彼の車を見送った。忠犬ハチ木、なんちゃって。ふふ。……いかん、完全に頭が機能していない。
ちょっとだけ寝た(というか気絶した)せいか、ますます眠気は酷くなっていて、部屋に戻るまでの短い階段で5回ぐらい転んだ。無駄な怪我を負いながら辿り着いた部屋の扉に、震える手で鍵を差し込んだ末に。
────玄関についた、真新しい血痕に出迎えられた。
明らかに私のものじゃない。
「………………」
なんだかもう驚く気にもなれなくて、強盗だろうが空き巣だろうが構わなかった。
起きたら掃除しよう、犯人がいたら掃除させよう、などとうっすら考えながら靴を脱いだ。ほとんど這いずるような歩き方で寝室へ入る。
「おかえり」
「…………アンタの家じゃないでしょ」
応急箱を脇に携え、降谷が腕に包帯を巻いていた。
彼が尻に敷いている布団は、降谷が敷いたんだろうか。それとも無精な私が放ったらかしにしてあったんだっけ。ああダメだ。思考を冷静に回そうとしても、眠気が即座に邪魔をしてくる。
なんでこいつは私の家にいるんだ。しかもなんで全身血まみれで、そんな怪我までしているんだ。そのわりに平然とした顔なのも腹が立つ。私以外がこいつを傷つけた事実がもっとも苛立たしかった。こいつに勝つのは私なのだ。だから私が勝つまでこいつは誰にも負けちゃいけないはずだろう。
「なんで、怪我してんの」
眠気で理性なく暴走した思考が、そのまま口を突いて出た。
部屋の入り口に突っ立っている私を、降谷が『なんでこいつ入ってこないんだろう』みたいな顔で座ったまま顧みる。
「ちょっとビルからビルへ飛び移ったんだ」
「いつからスタントマンになったわけ」
「必要ならなんでもするさ」
その事もなげな口調が、私の苛立ちに拍車をかけた。
「私、四徹なの。分かる? 寝てないの。全然。まったく。これっぽっちも」
「そういえば、少し痩せたな。いや、やつれたのか?」
「そりゃ飯だってろくに食べてな…………あれ、マジで最後に食べたのいつだっけ」
二徹目の昼に、由美ちゃんから「エナジードリンクばっかだと肌が死ぬわよ」と手作りのおにぎりを押し付けられたことは覚えているのだが。それ以降の食事の記憶がまるでない。半自動的にひたすらエナジードリンクの列を作り出していたように思う。
いや、これはきっとろくに回っていない頭だからそう思うのだ。ちゃんと寝て、次に出勤したときに周りに尋ねてみればそうでもないはず。うん。そう信じよう。
目を細めてた降谷が、ちょっとだけ面白くなさそうに言う。
「……おまえ、ちゃんと食えよ。ただでさえ肉付き良い方じゃないんだから」
「うるさい。アンタに言われるまでもないから。そもそもなんでアンタいるの」
寝るから退け、と降谷を強引に退かしつつ、布団の上で横になる。スーツが皺になろうが知ったことか。いまの私はそんなことに頓着していられないのだ。
降谷が私の家に足を運ぶのは、たいてい二人で飲んだあと。私を送り届けがてら来た彼は、帰るのを億劫がってそのまま寝ていくのだ。
こいつが一人で来たことなんて、実は数えるほどしかない。その数少ないすべてに、確か共通点があって────。
「寝るのか?」
目を閉じた私の頭を、降谷が遠慮がちに撫でていた。
こいつの手は、大きくて骨ばっていて指が長い。男の手だ。私が憎くて憎くて仕方ない、性差そのものだ。
「四徹だっていったでしょ」
かぶりを振って払おうとしたら、うまく力が入らなくて、自分から擦り寄るような形になってしまった。離れようとしたけど、自分から退くのは腹立たしくて、あとなによりもう眠すぎて、私は諦めて身体の力を抜いた。
「アンタ、なにしにきたわけ」
もはや呂律もまともに回らない。子どもみたいな舌ったらずな問いかけになってしまった。
頭を撫でる降谷の手が止まった。手が離れる、と思えば、隣で大きななにかがモソモソと動く気配がする。適当に投げ出していた腕を持ち上げられる感覚。
睫毛にダンベルを付けられたように重い目蓋を持ち上げた。
私の胸元に顔を埋めている降谷の頭頂部が見下ろせた。赤ん坊みたいに身体を丸めて、私の腰に包帯を巻いた腕を回している。
「に会いたかった」
顔を埋めたまま、降谷が言った。
「……ああ、そう」
落ち着いている平時の私なら、「なんでだよ」とか「どっかで頭打った?」とか「SAN値大丈夫か?」ぐらいは返したと思うのだけど、いかんせんいまは眠かった。降谷の言動とか路傍の石ころぐらいどうでもよかった。ただ泥のように眠りたかった。
「おやすみ」
告げて、最後の力を振り絞る。
死にかけの魚みたいな動きで、べちべちと右腕を動かした。それを首の下に差し込んでやると、降谷はますます擦り寄ってきた。腰に回されていた腕の力も、心なしか増した。
「……おやすみ、」
降谷の声を聞き届ける。
ぶつり、ブレーカーが落ちたように意識が飛んだ。