ピピピピピ、今日も五月蠅い音で起こされる。

 休日なんだからもうちょっと寝かせて、なんて緩んだ思考に転がりそうになって、今日はいつもと違うことを想起する。警醒した私は手を伸ばして目覚まし時計を止めようとして、しかし手に触れたのは無機質な手触りではなく、むしろ心地いい人肌だった。アラームが止まる。私の思考も一瞬止まる。ギギギ、と錆びた機械のように首を回して横を見ると、勝ち誇った顔で笑う降谷と目が合った。


「俺の勝ちだ」

「……別に勝負してたわけじゃないし……!」

「負け惜しみで俺の手の甲をつねるな。痛い」


 ほぞを噛む思いでベッドから抜け出す。降谷は目覚まし時計を愛でるように撫でていた。平時とは異なって寝間着姿の彼に、ハンガーに掛けていたスーツを投げてやる。降谷が「ぶ」と顔面で受け止めたので、少しだけ気が晴れた。


「米? パン?」

「どっちでも」

「まあ米しかないけど」

「じゃあ訊くなよ」


 今日は非番だった。だから昨日も降谷をいつものバーに呼び出した、ところまではしっかり記憶がある。いつもと違ったのは、昨日の降谷が「どうせおまえの家に泊まることになるから着替え持ってきた」と合宿時の学生みたいにスポーツバッグを持参してきたことである。その宣言通り宿泊セット一式がきっちり詰め込まれたバッグの中身を見て、抱腹絶倒した記憶も残っていた。

 酒の余韻でぼんやりする頭を押さえながら、ふらふらと部屋を移動する。居間に入ってすぐ、ほとんど無意識にテレビを付けた。朝の報道番組を担当している、特徴的な髪型の男性キャスターと目が合う。彼が垂れ流すニュースを耳にしながらリモコンを放り投げて、台所に入った。

 私は非番だけど、降谷は出勤日だ。だから平時と違って、寝起きだというのにぼんやりしていないし、昨日も酒を控えめに加減していた。さっさと朝食を作ってやった方がいいだろう。

 冷蔵庫を開いて献立を脳内で組み立てていると、スーツに着替えた降谷が欠伸混じりに居間に入ってきた。後頭部の一房だけがおかしな方向に独立していたので、私は思わず吹き出した。


「いきなり笑って、どうした」

「寝癖」


 右手で食材を抱えながら、左手でおおまかな位置を指摘してやると、降谷は素早く反応した。ばっと手で押さえたかと思えば、ムッとして「直してくる」とまた居間を出ていった。


「ついでに顔と歯も洗ってくれば」


 廊下に声を投げると「おまえに言われるまでもない!」と返事があった。

 米は昨日バーに出かける前に炊いておいた。もやしの味噌汁を作りながら、グリルに魚を突っ込んで焼く。ついでに卵をかき混ぜて玉子焼きの準備をした。後ろの電子レンジの中身も、それぞれの片手間に入れ替える。


「おい、歯ブラシの新品ないのか!」

「ない。私のでも使っといて」

「……了解」


 廊下から声だけが届く。まもなく少し離れた洗面所から水が出る音がした。

 食卓に皿を並べ終えるのとほぼ同時に、寝癖を直した降谷が戻ってきた。私が椅子に腰を下ろせば、彼は自然と向かいに座った。どちらからでもなく「いただきます」と漏らして、箸を手に取る。


「そういえばアンタ、昼はどうすんの」

「テキトーに何か買って食うよ。どうせろくに食べる暇はないし」

「あらそう。じゃあコレは私のにしよ」

「……コレ?」


 ぱくりと玉子焼きを口に放り込んだままの状態で、降谷が上目遣いで私を見る。

 食卓の片隅には、朝食を作る片手間に手抜きで仕上げた弁当を風呂敷で包んで置いてあった。四角い風呂敷を顔の高さまで持ち上げて、私は「コレ」と繰り返した。降谷がごくりと嚥下して、喉仏がわずかに上下した。


「そんなこったろうと思ったから、ほとんど同じ食材と冷凍食品を詰め込んで作ってやったんだけど、食べる暇もないなら要らないね」

「……いや。軽率な発言だったかもしれない。頑張って作れば、食べる暇もある、と思う」

「別に無理して時間作らなくていいわよ。私が食べるし」

「いいから!」


 突然の大声に瞠目する私の眼前に、降谷は片手を開いた状態で差し出した。
 食べる手は休めないまま、彼は言う。


「寄越せ」

「……半分以上冷凍食品だけど」

「いいから。いいから寄越せ」


 私が恐る恐る風呂敷を前に出すと、降谷は引ったくりさながらに受け取った。そのまま自分の膝に置いてしまった彼を見て、どれだけ食費を浮かせたかったんだと思わず呆れてしまう。そんな私の視線に気付いたのか、降谷は魚の骨を丁寧に剥ぎながら「返さないぞ」と目つきを鋭くした。


「返してほしいとかじゃなくて、そんなに弁当欲しかったのかと呆れてたんですぅー」


 べーっと舌を出してやると、降谷は魚の身をほぐしながら「舌に海苔付いてるぞ」と淡々と指摘してきた。はっとして舌をしまい、すぐにお茶を口内に注ぐ。ごくりと飲み込んでから「どうよ」と見せつけると、降谷は司令官さながらの堂々さで頷いた。


「綺麗になった」

「……いや、何でアンタに見せなきゃいけないの」

が勝手に見せてきたんだろう」


 ごちそうさま、と降谷は手を合わせた。彼の分として用意した皿は、どれも見事に完食されていた。時計を見ればまだ五分しか経っていない。競っていたつもりはないけれど、早食いでも負けた気分になって忸怩たるものが胸中に滲んだ。

 自分の分の皿を片付け終えて、風呂敷を抱えて席を立つ降谷をジトリと見上げる。

 テレビの中のキャスターとコメンテーターは『若者の草食化』だとか何とか好き勝手に喋っていた。


「……そんなに遠くないわよ、職場」

「馬鹿。俺とおまえじゃ勤め先が違うだろ」

「でもアンタ、昔から呼べばすぐに警視庁に来たじゃない。ってことはそんなに距離があるわけじゃないでしょ」

「……それはそれ! これはこれだ!」


 彼にしては珍しく歯切れの悪い言い訳だった。降谷と違って私は警察庁に用事があることなんて早々ないから、どうにも相互の距離感が掴めない。もしや的外れなことを言ってしまったのだろうか、しかしそれにしては降谷の発言が煮え切らなかった、と思いながらやや遅れて私も食事を終える。

 降谷が一人分は片付けてくれたから、残っていた皿もそう多くなかった。食卓を占領していた皿を台所に移して、洗い物を開始する。それが半ばを超えたあたりで、降谷がまた顔を見せた。


「俺、もう行くな。一宿一飯ありがとう。うまかったよ」

「どうも。アンタも気をつけて――」


 そこまで言ってから、はたと思い立った。ここまで世話を焼いてしまったのだから、もうとことんやってしまおう、と。手についた洗剤を流してから、蛇口を捻って水を止める。引っ込んでしまった降谷の背中を慌てて追いかけると、今まさに彼は外に出るところだった。


「どうかしたか?」


 降谷がキョトンと訊ねてくる。

 私は胸を張って、腰に片手を当てた。


「何もないけど、どうせなら見送ってやろうと思って」


 喜んでいいのよ、ともう片方の手を振る。誰かに送迎してもらえない一人暮らしの寂しさは、私もよく知るところだ。最近の降谷が誰かと同棲し始めたとは聞いていないし、きっと彼もまだ一人暮らしだろう。

 私の親切心に対し、降谷は露骨にしかめっ面で大仰な溜め息をついた。壁に額を擦りつけ、沈鬱な雰囲気すら醸し出し始める。


「おまえという奴は……本当に馬鹿なんだよな……」

「基本スタンスがものすごく失礼よね、アンタ」

「……ホント……おまえってやつは……」


 私の言葉も聞こえていない様子で、二度目の大きな溜め息をついた。そうしてようやく壁から離れて顔を上げた降谷はすたすたと近寄ってきて、私の額に強烈なデコピンをかましてきた。


「――ッ!」


 あまりの痛さに涙目になる私を満足げに見下ろして、降谷は笑いながら踵を返した。


「いってきます」


 その笑顔がとても楽しそうだったものだから、知らず毒気を抜かれてしまった。気付いたときには彼の姿が消え、玄関の扉が閉まりかけていた。私は慌てて声を飛ばす。


「い、ってらっしゃい!」


 ちゃんと聞こえただろうかと不安になるタイミングで扉が閉まった。

 扉を開けて降谷を視認して「ちゃんと聞こえたか」と確認するのは簡単なのだけど、そこまでしてやるのは些か癪だった。まだ痛む額を一度だけ撫でてから、彼の真似ではないけど、気分を切り替える為に息を吐いた。


「洗い物やろ」


 その一言はほとんど自己暗示だった。私も踵を返して、台所に戻る。



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