那由多





 失敗したのだ。

 調子に乗った。油断した――どれだけ言葉をすり替えてみても、事実は変わらない。覆らない。

 任務の最中に銃で撃たれ、自分は意識を手放した。出血で朦朧とする意識で、必死に自分の名前を呼ぶ仲間の声がひどく喧しかったのを覚えている。俺のことはいい、それより被疑者ホシは確保できたのか。そう言おうとして、ぷっつりと糸が切れたように暗闇に放り込まれた。
 
 死ぬのかな、とぼんやり思った。
 
 死んでも不思議はなかった。こんな仕事を生業にしていれば、銃創なんて珍しくもない。怪我なんてのは日常茶飯事で、流血沙汰も慣れっこだ。自らに手当を施すことに慣れたのは、いつ頃だったか。国家に忠誠を誓ったその日から、犯罪者を捕らえるためなら何でも身に着けた。
 
 己が死んでも任務を全うするという覚悟は、常に。
 
 ただ、こんな中途半端な形になるのは心残りだった。
 どうせ死ぬなら、もっと区切りの良いものがよかった。
 被疑者を捕らえたかどうかも定かでないままくたばるなんて、少し癪だ。

 ……それでも、自分はこのまま死ぬのだろう。
 降谷の血液型は貴重だった。センターに十分な在庫があるとは思えない。
 出血死なんてつまらない死に方だ。









 公安として生きると決めたとき、それまで、、、、のものは全て捨てた。
 
 思い出も、己も、友人も。
 そうでなくては、職務を全うできないから。
 
 彼女も――も、その一つだった。

 極度の負けず嫌いだ。常に降谷に張り合ってくる女だった。
 児童のような男女の性差が少ない時期ならともかく、成人した身では能力の性差は大きい。だというのに決して諦めず、性差や個々の才能を言い訳にせず、ぴんと背すじを伸ばして胸を張って、全力で降谷を追いかけてくる。半端な男連中なんて歯牙にもかけず、伊達とも抜かし抜かされの関係だった。だから、馬鹿な奴だなあと笑っていた。何をしても自分の一歩後ろなのに、馬鹿の一つ覚えみたいに付いてくるから。降谷を追いかけることさえしなければ、十分優秀な女なのに。
 
 別にそうと望んだわけではないけれど、自分の人生はと共にあったように思う。
 でも、もう無理だ。自分はもう降谷零であって、そうではない。
 彼女と共にいることはできないのだ。
 
 さよなら、と言った。
 別れを告げたときの、の顔がふと見えた。
 
 ――ふざけるな。
 噴火みたいな勢いと声量でそう怒鳴られた。
 顔もまさにそんな感じで、胸倉まで掴まれた。およそ女がする表情ではなかったと思う。

 それから――そう、確か彼女はこう続けた――――




「勝ち逃げなんて許さない」




 ……いつか聞いた言葉が鼓膜を叩いた。
 懐かしい、馬鹿な声音だ。
 
 ぴ、ぴ、と機械音が断続的に続いていた。
 薬品の匂いがした。病院特有のそれだと気付いて、そっと目を開ける。
 ぼんやりとしていた視界が、徐々に明瞭になっていく。
 
 薄暗い室内に、青白い顔色の女が立っていた。
 憚りなく言って、それが知り合いのものではなかったら叫んでいたと思う。幽霊かあるいはその類の何かだと勘違いするには十分過ぎるシチュエーションだった。


「……?」

「勝手に死ぬな」女――は言った。「私が勝つまでに死んだら、殺してやる」


 どうしてここにいるのか――いや、そもそもどうやって自分の目の前に立ったのか。最後に会ったときに、自分の痕跡は例外なく消したのだ。がここにいる道理がない。
 
 そう思うのに、舌は別の言葉を勝手に紡ごうとする。死人をもう一度殺す術があるのなら、ぜひ聞かせてもらいたい。いつかのように皮肉を返そうとしたけど、引き返してきた睡魔に負けて、言い損ねた。
 
 意識をまた手離す寸前に記憶に焼き付いたのは、確かに殺人犯めいた彼女の双眸だった。

 ……再び目を覚ましたとき、彼女はいなかった。
 あれは夢だったと思った。

 何せ、がいる筈がない。自分の脳が勝手に都合の良い幻覚を見させたのだ。同僚によれば死ぬ間際までいったらしいから、最後に懐かしい顔でも見たくなったのだろう、と。
 
 しかし実際は、本当にがいたらしい。
 それも失血死寸前まで血を降谷に分け与えた状態で、あのとき目を覚ますまで二日間ぶっ続けで自分を睨みつけていたというから言葉もない。「死んだら殺す死んだら殺す」と呪いのように呟き続ける彼女が病室に居座っているので、非常に見舞い辛かったとは同僚たちの言だ。
 
 確かに、の血液型は降谷と同じ型だ。
 だがどうして彼女が輸血するのか。いまの彼女と自分にはまったく接点がない。センターを経由するなら分かるが、直に抜いたとのことだから理解に苦しむ。
 
 まさか――まさかとは思うが、ここまで追いかけてきたのか。
 降谷に勝ちたいがために、それだけの目的で、わざわざ痕跡を消した男一人を探し出して。
 自分が死ぬ寸前まで血を分け与えて。
 
 気付けば、降谷は病室で大笑していた。
 馬鹿な奴だとは常々思っていたが、まさか、ここまでとは。

 あいつも――俺も、馬鹿だ。
 
 あんな馬鹿から勝ち逃げできると思っていたのは、愚かだった。猪突猛進な馬鹿は何をするか分からない。痕跡一つ残さず消え失せた男を、どうやったか知らないが、ここまで追いかけてきた。そんな奴から逃げられる道理がない。どんな手を使っても追いかけてきて、また胸倉を掴まれる。死の瀬戸際からも引き戻した女だ。たとえ大気圏外まで逃げたって追いついてくるだろう。そして、勝ち逃げするなと怒鳴られる。
 
 遠からず、から与えられた血液はそのまま降谷のそれに成り代わるだろう。
 だが、それは確かに彼女が精製したものだ。
 まるで首輪だと、降谷は首元を指でなぞった。
 
 諦めよう。
 
 の前から消えることを。
 あの馬鹿は、未来永劫自分のことだけを追いかけていればいい。
 自分のことだけ見ていればいい。
 




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