阿僧祇





 分からない。
 いや厳密には分かっている。完璧に理解していると言ってもいい。

 ただ、脳が現実を拒絶しているだけで。

 安室透はポアロのキッチンの最奥で膝を抱えて、ついでに頭も抱えていた。いつになく思いつめた様子の彼を心配し、店長と榎本梓が代わる代わる顔を見せる。その度に「大丈夫です、もうすぐ出ます」と返すのだが、そのもうすぐ、、、、はまだ先の話になりそうだった。

 ポアロの店員はそう多くない。しかも名物店員になりつつある安室の姿が見えなければ常連が不審がるのは間違いない。波紋が広がらない内に安室としても、いつもの元気な姿を披露したい。

 ――それでも、いまはダメだ。ダメだろう。ダメかもしれない。

 もうなんていうか、色々とダメだ。

 嗚呼、と安室は一層頭を抱えた。不思議と身体が重いような気すらする。それでもどうにか立ち上がり、ふらふらと頼りない足取りでキッチンとカウンター内の境目に立つ。彼はごくりと生唾を飲み込み、そっと暖簾の隙間から店内を覗いてみた。

 ――まだ、いる。

 窓際、向かって右側から数えて二番目の席。
 安室の既知でもあり、常連でもある江戸川コナンの後ろ姿が視認できた。学校帰りなのか、椅子にランドセルが掛けてある。彼がポアロに訪れるのはそう珍しくない。何せ、彼の住まいはポアロのすぐ上なのだ。

 だから問題は彼ではない。その向かいに座る女だ。

 知り合いである。しかし安室透の知り合いではない。
 ――降谷零としての彼が思いを寄せる女だった。

 どうして彼女がポアロにいるのか、江戸川コナンと二人きりで同席しているのか。詳細は不明だが、大まかな部分は推測できる。それでも謎は謎なので、安室は複雑な思いで二人を観察した。

 顔を合わせれば、彼女は即座に安室の正体を看破するだろう。一応空気の読める、口の堅い女ではあるから公安のことまでは口走らないとは思うが、どこに組織の者が潜んでいるか分からない現状だ。僅かな可能性でも排除したい。彼女が降谷零と安室透は別人だと思い込むほどの馬鹿であればいいのに――いや馬鹿ではあるのだが、そこまでの馬鹿とは思いたくない。相反する思いに板挟みされ、安室は陰鬱な表情を崩せない。

 と、梓がコナンと話している姿が目に入った。話が一区切りついたのか、コナンがふいに振り返る。暖簾の隙間から覗いている安室と目が合う。そこまではまだよかった。何故か、彼女まで安室の方を見遣った。


「……っ」


 咄嗟に奥に引っ込んだが、手遅れなことは理解していた。
 目が合った。安室は彼女を視認した。彼女もきっと、安室を認めた。

 心臓が早鐘を打っていた。今までのどんな現場よりも緊張していた。組織の中で立ち回っているときよりずっと恐怖心を感じている。彼は知らず脂汗までかいていた。

 暖簾をくぐり、キッチンに梓が顔を見せた。また顔色を悪くしていたのだろう、安室を心配そうに覗き込む。


「安室さん、大丈夫ですか? 早退しなくて平気ですか?」

「……大丈夫です」

「そのわりには、顔が真っ青ですよ」


 無理にとは言いませんが、と梓はそれ以上心配の言葉を口にしなかった。気遣いも切り替えもできる、仕事ができるタイプだ。容姿も悪くない。こういう女性を伴侶にできれば、きっとこんなことにはなっていなかったのだろう。

 ――本当に、どうしてアイツなのだろうか。知らず安室の顔に自嘲が浮かぶ。


「コナンくんが呼んでましたよ。紹介したい人がいると言ってました」

「……コナンくんが?」

「ええ。でも、体調が悪いようだったら断っておきますけど」

「……いえ、大丈夫です」梓には聞こえないよう、口の中だけで呟く。「いま逃げても、きっと地獄の底まで追いかけてくるだろうし」


 彼女の執念だけは、誰よりも知っている。

 安室は梓の横を通り過ぎ、キッチンを出て、カウンター内へと姿を見せた。

 空気の流れが変化したのを感じたのだろう、コナンと話していた彼女が安室の方へ視線を向けた。その顔にありありと驚愕が浮かぶ。

 やっぱりな、と安室は諦念を込めて口角を上げた。

 足を動かす。コナンと彼女がいる卓の傍に立つ。コナンが安室の姿を認め、無邪気な声を上げた。


「あ。安室さん」

「やあ、コナンくん」彼に微笑みかけてから、安室は彼女を一瞥した。「……彼女は?」

――」コナンは慌てて言葉を付け足した。「――姉ちゃん、姉ちゃん。新一兄ちゃんの従姉なんだ。警視庁の刑事なんだよ」

「へえ。刑事さん」


 未だ目を見開いているに、安室はいっそ綺麗なまでに整えた顔で微笑みかけた。


「初めまして。安室透です」

「……、です」


 彼女は呆然とした調子で続けた。


「安室さんって、私の知り合いにそっくりです」


 何も知らない奴には、ただの感想に聞こえただろう。

 だが安室透は違う。彼の内にはとの付き合いが何年分も蓄積されており、それはそれだけ彼女に対しての経験値だ。だから、彼女が「安室」の名を呼んだ時点で彼には分かってしまった。



 ――こいつ、心の底から言ってやがる。



 という女は馬鹿だった。義務教育時代から親交のある相手の予想を裏切るほどの大馬鹿であった。

 降谷零と安室透は別人である、とこの期に及んで信じ込んでしまうほどに。

 
 その日の夜、降谷零の携帯に「世界に三人は自分にそっくりな奴がいるらしいぞ」と記されたからのメールが届いたことにより、彼は確信を得る。













「へえ、コナンくんに呼ばれたんですか」

「ええ。でも、呼び出した本人がいなくて。えっと、阿笠博士ってご存知ですか? ちょっと有名な発明家なんですけど」

「ああ、阿笠博士なら僕も知ってますよ」

「本当ですか! ええ、その人のお宅に遊びに行ってるみたいで。メールはすぐ帰るっていってるんですけど、実際ここで待ちぼうけを食らってますからアテになりませんね」


 ――あれ以来、はちょくちょくポアロに顔を見せるようになった。その用事はだいたいコナン関連だが、時折毛利小五郎やその娘と卓を囲んでいる光景を目にすることから察するに、公私半々といったところかもしれない。

 カウンター席に座ると、机を挟んで言葉を交わす。それはこの最近ですっかり慣れてしまったことだったが、未だ納得がいっていない事実が一つある。

 の言葉遣い、表情、仕草――そういうもの。
 警察学校同期や仕事関係のときには絶対に見せなかったものばかりだ。口角の上げ方、指の動き方、話し方――どれをとっても大違いだ。安室透に向けられるその諸々を、降谷零は目にしたことがない。プライベートで男を相手にしているときは、はそういう顔をするのか。ふーん、へーえ、ほーお。

 とはいえ、それを表に出すのは三流のやることだ。


「はは、週末なのに大変ですね。ポアロとしては嬉しいですけど」

「そうなんですよ、やっと土日に休みが取れたのに! あの子はいつも勝手だから!」


 そう言いつつも、の顔は緩んでいた。

 は工藤新一の従姉である、ようだ。しかしどうして工藤新一でもないコナンの言うことに一々従っているのか、不思議だった。コナンとの関係を聞き出そうとすると、詐欺師でも驚くほどの鮮やかな話題転換をされるので、安室はいつもはぐらかされている。


「しかし、さんほどの女性ならコナンくん以外からもお誘いがあったのでは?」

「あったら、こうして待ちぼうけをしなくてもよかったんでしょうねぇ」


 けらけらと笑うに笑い返しつつも、安室は笑顔の下で考えを巡らせる。

 先程の言葉の意味を簡略化する。男の気配なし。彼は熱いガッツポーズを胸中で決めた。


「えー。じゃあさんいまフリーなんですか?」

「そういう安室さんこそどうなんですかー」

「僕はこの通り冴えない男なので……」

「どの口が! 安室さんが冴えなかったら世の中の男全員冴えませんよ!」


 安室の軽口を笑い飛ばすに下心は見えなかった。もとより、その手の駆け引きが苦手な女だ。いまの発言にも他意はないのだろう。だから、安室はそこにつけ込む。


「――じゃあ、僕と付き合ってくれますか?」 

「いいですよ」


 …………あれ?

 聞き間違いかな、と安室は凍り付いた笑顔のまま首を傾ける。


「……僕の予想では『そ、そんな……急に言われても……』と困惑するか『好きな幼馴染がいるので』と断られるか『何言ってるんですか』と流されるかのどれかだったんですけど」

「安室さんがいいなら付き合いますよ。私、別に困ることないし」


 何を恥じらうこともなく、平然とは言い切った。

 コーヒーカップを手に取り、一口飲む。喉を潤してから、彼女は安室の目を見て開口した。


「あれ、もしかして冗談でした?」




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