「あ。ー! 今度の日曜合コンしようって言ってるんだけど、アンタも来ないー?」


 廊下を歩いていたら、前方からやってきた宮本由美が手を大きく振ってに呼びかけた。

 数歩進んで彼女の傍らに立つ。交通課の同僚と思しき女性職員と話し込んでいた由美と目を合わせつつ、は日曜の予定を思い出す。日曜――何もなかったような気がして頷きかけたとき、「あ」と間抜けな声が漏れた。

 そっと由美から目を逸らし、苦笑じみた表情で俯く


「……ごめん、由美ちゃん。今度の日曜は、その……先約があって……」

「先約? それならそうで構わないけど、アンタが休日に予定入れるなんて珍しいわね」


 親交の深い由美には、が休日をもっぱら睡眠で消費していることがバレている。は乾いた笑い声を漏らした。可愛らしい二つ結びが特徴的な交通課の女性がびくりと肩を揺らすほど不気味な笑い方だった。


「……ちょっと、花見をね」


 の一言に、由美は眼球が落ちるのではないかというほど目を見開いた。


「花見……? アンタが……? 休日は寝溜めるモノと豪語したが……?」

「由美ちゃん、私の言動結構細かく覚えてるね」

「――有り得ないわ。目暮警部の飲みの誘いすら『相棒見たいんで』なんて理由で断って直帰したアンタが、わざわざ日曜日に花見なんて行くわけがない。正直に仰い、何を人質に取られたの?」

「物騒だね、由美ちゃん……」


 佐藤美和子が高木と出かけるとき並の物々しさを醸し出す由美に、は一歩引いてしまう。

 取り調べさながらの威圧感を発散しまくる彼女を煙に巻くことは難しそうだった。いつの間にか興味を持ってしまったのか、交通課の彼女もじっとを見つめている。同僚の高木や千葉が相手なら三十六計逃げるに如かずと間を置かず駆け出しているのだが、同性の彼女たちから退くのは憚られる。は冷や汗を一滴垂らしてから、諦念の溜め息をついた。


「……別に人質なんて取られてないよ。……ただ、なんていうのかな、うん、その、アレだよアレ」

「どれよ」


 由美の追究は手厳しい。

 は身を反転する準備だけ整えて、ぼそりと呟いた。


「……彼氏に、花見行こうって、言われて」


 世界そのものが凍り付いた沈黙が一帯を満たした。

 陰でを狙っていた男が数人、膝から崩れ落ちた。たまたま居合わせた交通課の彼女は頬を赤くして、両手で口元を覆い隠した。そんな氷河期の沈黙すらも吹き飛ばすような声音で、宮本由美は高らかに驚愕を叫んだ。


「な、何ですってぇ―――!」


 瞬間。逃亡のスタートダッシュを切ろうとしただったが、素早く由美に首根っこを掴まれてしまい、あえなく失敗に終わる。誤魔化すような苦笑いで振り向いた彼女の視界に入ったのは、般若の形相で自分に笑いかける由美のドアップだった。


「説明」

「……はい……」


 説明は一分もあれば終わる。
 単にある男から「次の休みに花見でもどうですか」と誘われただけなのだから。











 待ち合わせ時間ピッタリに、彼は公園前で佇立していた。

 桜並木で近隣にちょっとばかり名を馳せるこの公園は、入り口付近にも桜吹雪がちらちらと舞い始めていた。その下に立つ美青年は絵になるの一言に尽きる。周囲を去来する人々の視線が老若男女問わず彼に集中しているのを認識して、風呂敷を携えたは思わず足を止めて、近付くのを躊躇う。

 しかしが踵を返すよりも早く、相手方が彼女の姿を発見してしまった。桜に負けず劣らず満開の笑顔で、彼は大きく手を振った。


「こっちです、さん!」


 眩しい。
 彼――安室透の笑顔に、は知らず目を覆いそうになった。

 通行人が「何であんな子が?」と首を傾げているのが嫌でも意識に入ってくる。見つかってしまってはもう逃げることもできず、彼女は若干申し訳なさすら覚えながら安室に歩み寄った。


「……こんにちは。安室さん」


 努めて笑いかけてみたつもりだったが、は自分がきちんと笑えているかどうか不安になった。

 安室透――一応、の現在の恋人に当たる青年。
 そして、従兄弟――コナンが若干の警戒心を抱いている相手でもある。

 彼と恋人関係になったのは、純粋な好意からではない。恐らく自分のみならず安室も別の打算を抱いてのことだろう、とは分析している。少なくともポアロでの安室を観察した限り、余程相手に困っているのだろうとは思えないモテ具合だからだ。まさか自分の容姿に惹かれたわけもないし、内面はもっと有り得ない。今だって、そんな深いところまで踏み込ませたつもりはなかった。だからコナンが警戒するのも当然で、彼は何かしらの下心を持って自分に接近したに違いない。

 ――そこまでは分かっているのだが、そこから先がさっぱり分からない。これまで何度もと安室はティーンズのような健全極まる逢瀬を重ねたが、どれも一般的の範囲を脱しなかった。これではまるで本当の恋人同士ではないか、とがベッドの上で一人転がりまくったのも一度や二度ではない。


「その風呂敷……まさか、本当にお弁当作ってきてくれたんですか?」


 喜色を全身から発する安室が、の持つ風呂敷に視線を注ぎながら言った。


「ああ……はい。私から作るって言い出しましたから」


 背負ったリュックサックの位置を直したはこくりと頷く。リュックサックの中には敷物や水筒など、花見セット一式が詰め込まれていた。


「嬉しいな。ヒトの手作りなんて久しぶりです」

「ポアロであんなにハムサンド作ってるのに?」

「……自分以外の、ってことですよ」


 分かっているだろうに、と言いたげな目でむっと睨まれた。子どもみたいな反応に、は思わず笑ってしまう。その直後、彼女は胸中で悶絶しながら絶叫した。

 ――だから! これがダメなんだって! なんでこんな普通の恋人みたいな会話してるの!

 表面上は穏やかな笑顔を保ちながらも内心は瀕死状態になっているの眼前に、そっと褐色の手が差し出された。彼女がキョトンとして、手の持ち主を見上げる。安室は照れくさそうに笑った。


「手、繋いでもらってもいいですか?」


 嫌ならいいんですけど、と褐色の手が逃げてしまいそうになる。

 拒むのは簡単だ。適当な言い訳を繕って、照れたフリでもしておけばいい。だけどそれは――逃げたことにならないか。あのクソ野郎・・・・とよく似た顔の相手に退くのだけは我慢ならなかった。はほとんど無意識に、その手を追いかけてしまっていた。彼女がハッとしたときには、互いの手は相手に絡みついてしまっていた。

 が半笑いで安室を恐る恐る見上げる。彼は輝かしいばかりの笑顔でそっと指を絡めてきた。


「――こんなに嬉しいのは、本当に久しぶりだ」


 コナン――工藤新一からは再三、安室透には気を付けるように注意されていた。「はたまに単純だからな……会うときは目一杯警戒していけよ」そのときには年下のくせにこの野郎と彼の頭を両手でグリグリ圧迫したものだったが、今度会ったときには謝っておこうと思った。まさか当時はその通りになるとは夢にも思っていなかったのだ。

 なんだか――いとも容易く安室の手の平で転がされているような気がしてならない。

 は慎重に、歩き出した安室の横顔をちらりと窺った。鼻歌でも奏でそうなほど、露骨に上機嫌だ。それを見て、ますます思考は混乱と動揺に見舞われる。

 いっそ分かりやすい悪人であればよかったのに。アイツぐらい気に食わなければよかったのに、と考えて、は知らず自嘲していた。本当に気に食わないのは彼ではなくて、彼が関係するときの自分だと彼女はよく理解していた。











「死にたい」

「……日曜の夜にヒトを呼び出しておいて、第一声がそれか」


 降谷零が馴染みのバーに、腐れ縁の相手の為に駆けつけたとき、はとっくに潰れていた。テーブルに縋りつくようにしてうげうげ鳴いている彼女の向かいに腰を下ろし、自分もウェイターにカクテルを頼む。

「来い」の一言で呼び出された降谷は、自分の推理力と行動力を恨みたくて仕方なかった。主語もなければ時間も場所も指定されていなかったからの連絡一つで、仕事でもないのに降谷は動いてしまう。人間というのはままならないとスケールの大きな嘆き方をしそうになったとき、がぐるりと首を回して、テーブルに顎を置いた。胡乱な目で降谷を見据える。


「……封印した筈の乙女回路が……一時的とはいえ稼働したのよ……成人式で体外に追い出した筈なのに……」

「まず乙女回路ってなんだよ」


 それは追い出せるものなのか。そして成人式までは体内にあったのか。

 酔っ払いのうわごとと理解しながらも、降谷は突っ込まずにはいられなかった。の酒癖が良くないのは重々承知していることではあるが、どうしてこうも突っ込まずにはいられない言葉ばかり吐き出すのかは疑問でしかない。

 ウェイターが持って来たカクテルを一気に半分ほど飲んで、降谷は胸中の諸々を腹の底に流し込んだ。

 は降谷の言葉には一切答えず、べしべしとテーブルを叩き出した。


「信じられない、曲がりなりにも楽しんでしまった自分が信じられない。あの男口上手すぎでしょ。何で私なんかを引っかけてるのよ、もっと良い女にしなさいよいっそ男でもいいから」

「男でもいいのかよ」

「……やっぱり男はダメ。どんな形であれ、そこらの馬の骨にまで負けるなんて耐えられないわ」


 やっぱり死にたい、と彼女は両手と一緒に頭もテーブルに沈めた。

 降谷は思わず溜め息をついていた。そっと手を伸ばし、の頭を優しく梳き始める。


「死んだら殺すからな」


 いつか自分に向けられた言葉を繰り返すと、それの発信源であるはろくな反応を見せずに「うう゛ー……」と唸っただけだった。これはもうすぐ寝るだろうな、と慣れ切ってしまった降谷は看破する。

 柔らかい髪の毛を一房摘み上げた。どうせこいつは明日には全て忘れてしまっているのだろうし、と降谷は身を乗り出して――そっと彼女の髪に唇を落とした。

 まるでそれがスイッチになったかのように、は穏やかな寝息を立て始めた。

 毎度思うのだが、仮にも男の目の前で無防備に寝てしまうというのは世間的にどうなのだろう。まさか自分以外の前でもやっているのではあるまいな、と降谷は不安になった。席を立ち、レジで精算を済ませてから戻る。一人で飲んでいたを狙っていたと思しき客の一部に見せつけるように彼女を背負い、降谷は店を出た。

 降谷の背中に担がれながらむにゃむにゃ言っているの意識がないのは明白だ。彼女の家を目指して、夜の街を歩いていく。いまのに、俺は昼間にもおまえに会っていたんだぞと言ってみたらどうなるのだろうと降谷は益体もないことを考えた。いつどこで、と目を剥く彼女がありありと瞼の裏に浮かんで、知らず笑みを漏らしてしまう。

 降谷ではを背負うことはできても、手を繋いで共に歩くなんて夢でもできやしない。当初はどうなることかと思っていた安室透で行う恋人の真似事は、思いの外、降谷にとっての安寧になっていた。

 久しぶりに食べた彼女手製弁当も相変わらず美味かったし、今日の呼び出しは許してやるか、と彼は自身に言い聞かせるみたいに胸中で呟いた。そんな言い訳を捻り出さずとも、降谷がの呼び出しに抗議することなんて今まで一度もなかったのだけど。



back | top |

inserted by FC2 system