決戦後
「終わったなぁ」
「終わったねえ」
「来なかったねえ」
「来なくていいよぉ」
あんなやつ、とヘクトールは槍を肩にかけて、空を仰ぐ。
ようやっとまともに眺めることができる青空に、もはや光帯はない。この前マシュと見たときと同じ、爽快な絵の具をぶちまけている。あのときは溢れる感情で手一杯で寒さなんて感じなかったけど、落ち着いた今になって見上げてみると、やはりカルデアの外はとても寒い。
今までは、高山に在るのだ、なんて当たり前な知識すら落としていたらしい。
今日の護衛担当のヘクトールは私の傍らに立って、感情の読めない顔で笑っている。
「オケアノスで会ったんだけどなぁ」
「だから来なくていいってば。オジサンのマスターはね、あんな人参に会わなくていーの」
「彼をそう言えるのはヘクトールぐらいなもんだと思うよ」
全てが終わって。
魔術教会から階位を貰った――いや、押し付けられたのか。
人理の救済なんて、それも彼らの知らぬ間に行った偉業なんて、魔術教会にしてみれば確信はあれども半信半疑といったところなのだろう。しかしヘクトールのような残ってくれた物好きなサーヴァント諸君が何よりの証拠なので、認めざるをえない。正面衝突を避けるための首輪が開位、といった感じか。
私自身は自分のために走っただけだ。それほどの偉業を成し遂げたのだ、と孔明先生たちに説かれてもいまひとつピンとこない。首を傾げるばかりの私に、孔明先生は溜め息をついて「貰えるものは貰っておけ。その気になれば捨ててしまってもいいんだ」と言った。
孔明先生のガワのヒト――ウェイバー・ベルベット。またの名をエルメロイ二世は魔術教会に属するヒトだ。人理が復旧した今となってはカルデアに協力する義理もなく、そそくさと帰ってしまうものだとばかり思っていたのだが、どうしてだか残留し、まだ私の指南役を担当してくれている。ダヴィンチちゃんは「憧れのヒトがいるからだろうねえ」と笑っていた。
冷えた手を吐息で温めていたら、ヘクトールがマントを広げ、その中に私を包んでくれた。
「寒い?」
「うん、思ってたより寒かった。ありがとう」
「いいよいいよ。はは、緑のアーチャーあたりに見つかったら宝具使われそうだなあ」
役得役得、とヘクトールは笑う。
温もりを求めて、遠慮なく彼の腹に手を回す。もう死んでいるヒトとは思えないぐらい、彼は暖かかった。ヘクトールの胸元にもそもそと顔を埋める。
「今度は、守かったね」
マントの上から私の頭を撫でていたヘクトールの手が、不自然に止まる。
ややあって、彼はぎゅっと私を抱きしめた。
「そうだな」顔が見えなくて、表情は分からない。「――今度は、勝まもったよ」
ごめんね、と私が呟くと、背後の彼は何故と問うた。
「だって、別にオルタニキ、殺戮が好きなわけじゃないじゃん」
「俺に好悪はない。マスターが望むなら、実行するだけだ」
だから謝ったのに、彼にはちっとも届かない。
槍の彼クー・フーリンも、術の彼クー・フーリンも、ちょっとだけ若い彼クー・フーリンも「アレはそういうものだ」と言う。実際、彼は女王メイヴにそうあれと望まれて生まれたものだ。好き嫌いなんてない。そんな風に望まれていなかったから。
「でもさ」私は彼を連れて、外へ通じる出口に向かう。「エミヤの料理とか、食べるの好きでしょ」
「……必要だからな」
「嘘つかなくていいよ。オルタニキだってヒトだもの。三大欲求を満たすのは心地いいでしょ」
オルタニキは黙り込む。無言で私の後についてくる。
センサーが反応して、自動ドアが開いた。途端に外の冷気が飛び込んでくる。廊下との温度差に怯んだのも一瞬で、私は率先して外に出た。今日は青空が見えなかった。嫌な曇天だ。
「殺さなくていいよ。痛めつけて、追い払うだけでいい」
オルタニキが私の前に出る。彼は鼻で笑い飛ばした。
「甘いな」
「食べてみる? 胃もたれするかもね」
棘の生えた槍を遊ぶように片手で振り回し、バーサーカーのクー・フーリンは歪に口角を上げる。
「――俺はおまえの槍だ。せいぜい好きに使えばいい」
突風が吹いた、と思った直後には、もう彼の巨体は消えていた。
一応の援護ぐらいはできるかと戦闘服の礼装にしたけれど、あんまり意味はなさそうだ。もとより、サーヴァントの戦闘が一般人に毛が生えた程度の私の目が追えるわけがない。
カルデアに野良の魔術遣いが襲撃しに来るのは、そう珍しくない。何せ現代の魔境であると同時に、神秘の宝庫だ。魔術をかじる者ならカルデアの内情を覗きたくて仕方ないだろう。残念ながらダヴィンチちゃんがいる限り、その望みはろくに果たされないだろうけど。
数分後に通信が入った。敵性反応の壊滅を確認、帰還されたし、とのこと。
「――クー・フーリン――――――!」
メガホン代わりの両手を当てた口から大声を放り出す。
こだまとなって山々に響いたそれが遠くなっていくより、オルタニキが呆れた顔で私の正面に立つ方が早かった。
「……常々思っていたが、おまえは馬鹿なのか?」
「そうかもね」私は手を差し出す。「もういいってさ。帰ろう」
彼は心底嫌そうに、その手を取った。
怪獣みたいにぎざぎざの手を、私はぎゅっと握る。
「作家共てめえらああああああああああ!」
自動ドアを壊さんばかりの勢いで飛び込んできた私に、一つの机を共有してそれぞれ執筆に励んでいたアンデルセンとシェイクスピアは顔を向ける。前者は五月蠅いと言いたげに顔をしかめて、後者は厄介事を期待しているわくわく顔で。
「何だ、マスター。騒々しい」
「また新しい特異点でも?」
「そんな簡単に特異点なんかできてたまるかばーか! って、そうじゃない! 何でおまえら、よりにもよってアンデルセンまで――」
私は抱えていたノートパソコンを広げ、その画面を二人に見せつけた。
シェイクスピアとアンデルセンの新作が綴られている、その液晶を。
「――ネットで新作発表なんてしくさりやがって! いまヤホーもググールもサーバーがパンク状態だぞ! 専門家は生まれ変わりだの遺作の発掘だの天才爆誕だのてんやわんやだ! 外来担当スタッフなんていま魔術教会からのクレームに追われてんだぞ!」
アンデルセンとシェイクスピアは顔を見合わせ――ニヤリと笑った。
「この偉大な劇作家様から執筆を誘われたときには気が乗らなかったが、マスターのオーバーヒート具合で苦労も報われた。いや、原稿料も締切も気にしなくていい生活とは最高だな! やはり執筆作業は筆が乗ったときにやり切ってしまうに限る!」
「『これが最悪だ』などと言えるうちは、まだ最悪ではないThe worst is not, So long as we can say, ‘This is the worst.’のですよ、マスター! そもそも、あのような死闘をこの目で見ておきながら筆が動かないなぞ作家の名折れです!」
なんて――堂々とした開き直り。
もっと言ってやりたい文句があったのに、どれも勢いを削がれてしまった。
溜め息をつきつつ、私は額に手を遣る。
「……別に書くなってわけじゃなくて。せめてペンネームぐらい使ってくれってこと……」
何で真名で発表しちゃうのさ。
項垂れる私の前で、二人は「では次は我輩がアンデルセンくんを名乗るのは如何か」「絶対にやめろ。俺が心不全で死んでしまう」などと次作について話し出す。
「貴女たちが戻らなかったのは意外だった」
庭園で花木に紛れていた彼女は優雅に振り返り、私の登場も言葉も予測できていたかのように、余裕たっぷりに微笑んでみせる。
「あら、そう? 私は当然のことだと思っているけれど」
「……当然なものか。だって、エウリュアレたちは神様じゃないか」
どうしてか戦う力を得てしまった、無力だった筈の女神。
アーチャーのクラスで現界した彼女は椅子に腰かけ、手招きで私を呼ぶ。
「当然よ。だって、私も私ステンノも妹メドゥーサも一緒に――姉妹揃って同じ所にいられるなんて、きっとこれっきりだもの。小さなメドゥーサなんて、もう見れないものとばかり思っていたわ」
「……そんなことないよ。またあなたたちは一緒にいられる。きっと、もっと平和な場所で」
「人間マスター。無駄な慰めは要らないの」
エウリュアレは私の頬に手を添える。
人間の私でも手折れてしまえそうな、細い手。儚い腕。
彼女はそっと手を動かして、私の髪を一房掬う。
「二度とない奇跡を満喫しようと思うのは、そんなにおかしなことかしら」
彼女の手が引いていく。私の髪はまたぱさりと落ちる。
音もなく立ち上がり、エウリュアレは「アステリオスにでも会ってくるわ」と腰を上げた。庭園を出ていこうとして、何故か彼女はふいに立ち止まる。動けない私の背に笑い声を投げてくる。
「――あなたのことも、それなりに気に入っているしね」
はっとして振り返ったそのときには、もう女神の姿はなかった。
庭園には、私だけが取り残されている。