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 目が覚めたら最強になっていました。

 ――なんて。もはやサブカル界隈に横溢する序文だけれど、しかして私の現況を語るならば悲しいかな、それが最適なのであった。











 路地裏に点在する水溜りの一つを上から覗き込む。これといった特徴のない、人畜無害という概念が形を成したような女の顔が水面から見つめ返してきた。生まれてからずっと付き合い続けてきた私の顔だ。見間違える筈もない、親の顔の次に覚え続けるだろう顔。黒々とした双眸が「現実だ」と物語っているような気がしてきて、うんざりしながら身を引いた。

 残念ながら夢ではない、ようだ。不確定系なのは私が未だ幻想という可能性を捨てていないからである。



「……オーラ、だよなぁ。これ」



 片手を胸元の高さまで持ち上げて、呆然と見下ろした。

 マジかよと心中で呟く。

 私の肌を覆うようにぴたりと寄り添うそれはベールのようで、マントのようで――つまり、よく分からない。三次元的な物質でないことだけは確かだ。だって服に擦れる音がしない。

 ただ、直感的に理解する。これ、、は私から端を発している――私のモノだ、と。

 見慣れぬ細道で目を覚ましただけでも失神モノだったのに、あまつさえこんな不可思議極まる事態に見舞われるなんて、世界仰天ニュースでも世界ふしぎ発見でも世界まる見えでも見聞したことがない。他人事ならとんだ悲劇だと嗤えたのに、自分事ではなんて悲劇だと嘆息だけでは不足する。オーマイゴッド、と無神論者なのにこんなときばかり神に八つ当たりしようとして、はたと脳細胞が閃いた。



「……ネン?」



 ……っぽい、ような。

 いやしかしアレは漫画の中だけの現象な筈で――と言い訳する前に、試行してみることにした。

 確か彼らは自在にオーラを操れていたような。朧気な記憶を精一杯拡大して、愛読書で活躍する彼らの真似事を試みる。ぴんと立てた人差し指にもやはり整然としたオーラが纏われていたので、その先に丸型――イメージとしてはシャボン玉――で固定させられないか意識した。



「…………マジかよ」



 今度は声に出てしまった。しかしそれもさもありなん。なんと挑戦一発目で成功してしまったのだった。思わず呆然と立ち竦んでしまう。

 何故私に念(暫定)が使えるのか。
 何故念(暫定)なんてものが存在しているのか。
 何故私はこんなところで寝ていたのか。

 ぱちんぱちん――色んな『何故』がそれこそシャボン玉のように次々浮かんでは弾けていく。

 真っ暗になってしまいそうな意識に喝を入れるため、思い切り両頬を叩いてみた。痛い、夢じゃない。古典的な方法だから現代式夢想の前では無意味かもしれないけど、とにかく目の前の状況を現実だと仮定しよう。ならば、どうする。夢だったら放っておいてもいつか目覚めるけれど――現実なら、前へ進まなくちゃ。一歩目はいつだって何事でも自覚的に行わなければならない。天才でない凡人は尚更だ。

 うっかり本気でやってしまったせいで、両頬がひりひりと痛む。じんわりと効いてくる火傷のような痛みに涙目になりながらも、私は歩き出すことに成功した。











 歩くこと、体感数分。

 私は路地裏から出て、人気の多い大通りの歩道を歩いていた。去来する老若男女の人波に紛れながら、行くアテもないのに足を動かす。棚上げした絶望を見ないように、ひたすら前だけを向いていた。

 その隣では四車線を有する広い車道が、常時沢山の車を走らせていた。それらの車種について私は造詣が深くないけれど、両手の数で足りる種類でないことはすぐに理解できた。如何なる理由かは不明だけど、この世界は数多の車種を増産できるほどの文明社会であるらしい。これは非常に幸運なことだ。原始人よりは宇宙人の方が交流できそうな気がする。……気である。たぶんどっちも大差はない。

 細長いビルの谷間を縫うように歩いていると、色んな看板や音声、匂いが五感を刺激してきた。まず看板について私見を述べるとしよう。なぜかと言うと非常に重要な事実が判明したからである。

 文字が、読めない。

 日本語、どころか外来語アルファベットですらないのである。私は人並み程度に知識があるつもりだったが、これはどうやら過大評価だったようだ。人生十も越えれば大抵の文字は読めるものだが、さっきから視界に入ってくる文字は何一つ解読できないのだから。
 霞みがかった記憶が「ハンター文字では?」と囁いてきていた。「ついに次元を超えたのでは?」脳内に響く阿呆の声を、かぶりを振って体外へと放り出した。暫定異世界、の暫定の枕詞が取れないように必死だった。

 次、音声について。これまた非常に幸運なことに、終始鼓膜を叩き続けるそれは、なんと日本語であった。生まれたときから聞いている母国語の雑踏というのはとても安心感がある。暫定の枕詞がやや足元を安定させ始めた。

 次、匂い。……これは申し訳ないのだが、差異が判然としない。だって私は今まで匂いを気にして生きて来たことがなかったからだ。強いて言えば都市の匂い――ヒトの繁栄を感じてはいるぐらい。特別異臭を覚えるとか、そういうことは現状一切ない。



「――――――」



 ふいに、足が止まった。

 私の意思ではない。目に入ったモノを認識、把握、そして刺激に至り、無意識に立ち止まったのだ。

 他のどの建物より特出して高い、雲を越えて尚上を目指そうとせんばかりのそれは、花畑の中に一本だけ竹が混ざっているような感慨を私に覚えさせた。その名は『天空闘技場』。荒くれもの達の楽園、戦闘狂の桃源郷。――私の世界には無かったモノ。

 辛うじて持ちこたえていた暫定の文字がぽっきり折れた瞬間だった。











 人気のない路地裏へと即刻出戻りリターン。周囲にヒトがいないか確かめる余裕もなく、大通りから一本外れた途端、私は細道で一人くずおれた。

 絶望して、慟哭して、吐露して。

 ひとしきり泣き喚いたあと、私はようやくまなじりに溜まっていた水滴を拭い、再び両の足で立ち上がった。

 信じられないけど、信じたくないけど、とにかくここは異世界らしい。それもあの漫画の中、、、、、、らしい。神に百回中指を立てたところで現状が好転するとは思えないので、ひとまず思考を生存重視で固定する。幸い、私には知識がある――いまは力もある。

 ひとまず衣食住だ。人間その三つさえあれば、当座しのぎにはなる。帰還方法などについてはそれから考えればいい。優先順位を間違えれば、私はヒトでさえなくなるかもしれないのだ。

 ふう、と一際大きな吐息をついて――少し前と同じように、片手に視線を落とした。

 オーラ――念。

 どんな道理かは知らないけれど、とにかく私にはチカラが与えられている。有るのならば使わぬ理由はない。系統を調べる方法なんかはちょっと思い出せないけど、とにかく物凄い能力であったのは確かだ。上手く使えば、子どもでも大人を圧倒できるほどに。

 私の心を容易く折ってみせた天空闘技場だが、しかしその存在は吉兆でもあった。当面の宿と飯、あわよくば金も見当がついたからである。あそこは強いだけで全てが許容される場所なのだ。

 ――ただ。逆に言えば、強くなければ無為。迂闊な怪我でもすれば生存も危ぶまれる。この世界の治安は決して良くなかった筈だ。自分の身は自分で守る、と固く決意しておかなければならない。

 天空闘技場に向かう前に――いまのチカラだけでも、確認できるものはしておくべきだろう。

 確か……オーラを纏わせた手は、尋常な破壊力ではなかった筈だ。壁でも殴ってみるか――いや、失敗したときが怖い。成功したらもっと怖い。試し打ちするなら、万が一にも後腐れのない対象がいい。



「……しかし……」



 都市部にいたのは幸いだと思っていたけど、まさかこんな場面で困るとは。これぞという、うってつけのモノがないのである。壊しても問題ない、殴打しても私が痛くない、そんなモノなんて早々見つかるわけがない。それもこんな大きな街なら尚更だ。

 どうしたものか、と俯いて――知らず「あ」と声を漏らした。

 あった。
 土の地面なら、殴打したところでそう痛くないし、万が一壊しても誰も困らない。

 些細なハードルだったが乗り越えることができて、私は心底ホッとした。こんな右も左も不明瞭な状況でも、自分だけで解決できたということが嬉しかった。そうと決まれば善は急げとばかりに、私はコンクリートが剥がれている部分に近付いた。そこで膝をつき、土の部分が鉄の硬さを有していないか確認してから。



「せーの」



 ぱん、と。
 やっぱりちょっと怖かったので、控えめに平手で叩いた。

 ――直後、街全体がひどい地鳴りに見舞われた。周囲一帯のコンクリートは箒で掃かれたようにめくれ上がり、建築年数を重ねていた年嵩の建物は傾斜した上に窓がことごとく割れて、愛すべき無知の人々は一時狂乱の渦に呑み込まれた。

 後に聞いた話によると、超局地的な地震に匹敵したそうだ。原因究明のため、専門家たちが総力を挙げて調査に取り組むも、『プレートには一切異常なし』という結果しか出なかったそうだ。「天災ではなかったんです。そう、あれは正に神の所業! この科学の時代、何でも予測できてしまいますからね。それにお怒りになった神の鉄槌だったんです! 人間共よ、調子に乗り過ぎだというメッセージだったんですよ!」などど科学者から宗教家へと華麗なる転身を遂げた男がテレビの中で鼻息荒く語るのを、そのときの私は肩身を狭くしながらも温かく見守るしかなかった。まさか真実は神の鉄槌などではなく、小娘の気楽な実験だったなどと誰が言えようか――誰が信じようか。

 騒然とする街の一隅――薄暗い路地裏で、私は引きつった笑いを漏らすしかなかった。



「……これは……殺す……」



 子どもを叱るような平手で、都市一つを揺るがしてしまうほどの破壊力。このチカラで目一杯殴りつけでもすれば、まともな人間が受けた場合男でも女でも平等に挽き肉にしてしまうだろう。

 現状私はこれに頼らざるをえないわけだけど――使用に際しては細心の注意を払わなければならない。うっかり誰かの背中を気安く叩きでもすれば……ああやめよう、考えただけで血の気が引く。



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