RE:1





 若い女が一人で、それも人気のない細道にいるなんて襲ってくれと言っているようなものだ。

 オレがそいつを見つけたとき、女は胃をひっくり返したように吐きまくっていた。どれだけ吐いていたのか、もはや固形はなく、黄色い胃液ばかりを撒き散らしていた。こんな真っ昼間から酔っ払いかと疑ったが、それにしては酒の匂いがしない。女が戻している理由は酒ではなさそうだった。

 まあ何でもいい、とオレが足を進めようとしたとき、女はふいに立ち上がった。気付かれたかと咄嗟に物陰に隠れたが、女が逃げ出す気配はなかった。たまたまオレが踏み出すタイミングで、相手が立ち直っただけらしい。驚かせやがって、と苛立ちで舌打ちした。

 女は数秒凝然としていたが、その内キョロキョロと何かを探し出して、かと思えばいきなり屈んだ。まさか気狂いの類なのだろうか。それならば真っ昼間から吐き散らしているのも、こんな路地裏にぽつんといるのも納得する。いくら女の身体とはいえ、気狂い相手では興が乗らない。しかしあんなネギも鍋も背負ったカモを見逃すのも惜しい。どうしたものかとオレが眉根を寄せていると、女はおもむろに片手を挙げた。それは母親が子どもを叱るときの動作によく似ていたと思う。

 ぺちり、と。
 見るからに弱々しい平手が地面を叩いた。

 それだけで、街が――世界が震えた。この大都市の空気も、建物も、ヒトも慄然としたのである。

 まるでB級映画のように大袈裟な、しかし現実的な破壊の嵐が吹き荒れた。突然の巨大地震。赤ん坊は泣き喚き、建物は傾き窓は割れ、周辺のコンクリートは衝撃で剥がれ、空へと舞い上がった。

 腰を抜かして、歯をガタガタ鳴らすしかなかったオレの目の前で。
 その破壊を喚起した張本人は――笑っていた。



「……これは――殺す」



 そんな一言がオレの耳朶を叩いた。

 瞬間、オレは脇目も振らずに逃げ出していた。死にかけの鳥みたいな悲鳴がやけに五月蠅いと思ったが、それはオレ自身の口から漏れていたのだから当然だった。無意識に溢していた悲鳴に気付いても、おいそれと閉口することはできなかった。あの悪魔がいまにも背中から迫ってくるのではないかという恐怖で、いつでも助けを呼べるようにしておきたかったのである。

 あれが女? オレたちのエモノである女? そんなわけがない。そんなことがあっていいわけがない。よしんば女だとしても、女の皮を被った悪魔に違いない。

 オレはなんてことを考えていたのだろう。あの悪魔を襲う? 無理だ、誰にも絶対に無理だ。きっとアイツはオレの存在に気付いていたのだ。自分の瞑想を邪魔したオレに怒り、力の差を誇示するために戯れにこの街を恐怖に陥れた。オレのせいだ、あの地震はオレのせいだ。あの「殺す」なんて言葉も、きっとオレに向けられたのだ。だってオレはアイツの邪魔をしてしまったんだから。

 今までろくに神に祈ったことなんかない――だって信じてもいなかった。親や友人みたいな縋れる存在もいない。オレはずっと一人で、だからこんな外道に堕ちるしかなかった。腕っぷしは強かったから、それなりにうまくやっていたと思っていた。とんだ勘違いだった。膂力だけじゃ、あんな――本物の化け物には勝てやしない。

 ごめんなさい、という言葉は勝手にこぼれていた。

 ごめんなさいごめんなさい許してくださいこれからはもっと真っ当に生きていきますだから許してください命だけは助けてください―――そんな命乞いの言葉が通じたのかどうかは分からないけれど、アイツが追ってくる気配はなかった。ようやく足を止めて振り返ったとき、オレの顔はあらゆる水分でぐちゃぐちゃになっていた。

 許して、くれたのだろうか――オレにチャンスをくれたのだろうか。

 気付けば、目の前に明るい大通りがあった。今まで薄暗い路地裏から遠目に見ていただけのモノ。いまはアイツによって狂乱の海に溺れている場所。きっといまならオレみたいな悪党が紛れ込んでも、誰も違和感なんて覚えやしない。だってそれどころじゃないんだから。

 もしかしたらアイツはオレの為に……?
 命乞いが通じたことといい、まさか悪魔ではなく……――。

 それはないと笑いながらも、オレはどこか憑き物が落ちたような心地で、ぐしゃぐしゃの顔のまま、日溜まりへの第一歩を踏み出した。



back | top | Next

inserted by FC2 system