太陽






 中学に入ってからずっと気をつけていたのに、慣れてきたから油断したのか、今日失敗した。


「あ」


 一秒、彼女と視線を交わした彼は目を瞬かせて。


「おはよう、!」


 すぐにパッと明るい顔になって、誰にでもむやみやたらと尻尾を振る犬のように軽やかな足取りで近寄ってきた。なにがそんなに喜ばしいのかにはさっぱり分からないけれど、彼はにこやかに話しかけてきた。


「隣なのに、ずいぶん久しぶりに会った気がするよ」


 至近距離から伝わってくる嵐山准の弾むような感情に、は「ええ」と肯定のようで否定に近いニュアンスの、微妙な相槌を打った。やっぱり会話しなければならないのか。できれば見なかったふりをして立ち去ってくれればよかったのに。いまにも漏らしてしまいそうな溜め息をぐっと堪え、「隣でも、こんなものですよ」と続けた。

 隣、というのはお互いの家の話。としては可能なら引っ越したいのだけど、しかし金銭的にも両親の都合的にも、現実としてどうにもならない哀しい話。もっと現実的な話をするなら、二人が約半年ぶりに会った理由の八割はにある。嵐山を意図的に避けていたのだ。

 普段の嵐山はもっと早い時間に家を出る。家が隣同士だと相手の生活リズムはなんとなく把握できてくるものだし、それには嵐山准に関しては他人より一日の長があって、彼がそういう生き方をしているのだと思考の奥の部分で理解していた。だから普段から会わないように動けていた。

 しかし、どうしてか嵐山は今日に限ってまだ小学生の弟妹たちと一緒に家を出てくれなかったらしい。いままでの彼なら、二人の弟妹を小学校に送り届けがてら、その足で自分も登校しているのに。おかげで、同じタイミングで玄関を出て、顔を合わせてしまった。これじゃあが遅刻ギリギリまで粘ってまで嵐山と会わない時間帯に登校する意味がない。


「……。なんか、また痩せてないか」


 嵐山が心配と不安に瞳を揺らして顔を覗き込んできた。そのまま額をぶつけてくる勢いだった彼から「気のせいです」と距離を取り、九十度回転、はセーラー服の裾を翻して通学路を辿り始めた。

 歩き始めてしまえば他人の距離感に戻れると思ったのに、しかしその手の期待はことごとく裏切ってくるのが嵐山准という男で、彼はすぐに追いついてきて、の右横──車道側──に並行した。


「いや、気のせいならいいんだ。おまえは昔から食が細いから、事あるごとに桐絵になにかあげたり分けたりしていただろう。いまもそうしていたらダメだぞ。は成長期なんだから」

「……何年前の話ですか」


 返事をするつもりなんてなかったのに、記憶の中にあるままの嵐山の口振りが引っかかって、つい横目で視線を向けてしまった。


「もう何年も小南さんには会っていません。それに、子どもじゃないんですから。嵐山先輩が心配してくださらなくても、自分のことは自分でできます」


 しゅん、と嵐山が項垂れる。叱られた犬でもあるまいに、なぜか垂れ下がった尻尾が幻視できる気がした。マスクをした上から肌で感じ取れる彼の大きな落胆に、は知らず尻込みする。


「……どうしてそんな、他人みたいな口調なんだ……」

「え。そっち?」


 思わず心の返答をそのまま口に出してしまった。気をつけていたのに。しまった、とが眉をひそめたときにはもう遅い。嵐山は「それでいいぞ!」と目を輝かせて、との距離を半歩分縮めた。は慌ててその分左へとずれた。


「おれたちは幼馴染なんだから、他人ヒトにするような敬語なんてやめてくれ。おれにとってはもう一人の妹のようなものなんだ。敬語を使われると、距離を置かれたようで実に忍びない」

「……幼馴染は他人だと思いますけど」


 マスクの奥でぼそぼそと抗弁したところで、拳を握って熱く語る嵐山の耳には届かない。届いているのかもしれないが、都合の悪いことはとことんシャットアウトするきらいが彼にはあるので、いったいどちらなのかは釈然としない。

 今年一番の寒さと謳われる曇天の下、右隣の幼馴染だけがやたらと元気だった。街も、空も、自分も寒さに凍えているというのに。どうしておまえはそんなに溌剌としているのか、と問い詰めたい気持ちを抱くが、したら最後手の一つ二つは掴まれてしまいそうだったので、死んでもやるもんかとは自らの心に誓う。嵐山から視線をずらして、転ばないように足元に注意しているふりをして俯いた。

 しばらく嵐山は益体もない話題を吹っかけてきた。弟のこと、妹のこと、家族のこと、犬のこと、友人のこと、従姉妹のこと。意識しているのかどうか定かではないが、口にしているのは近しいことばかりなのに、不思議と自分のことだけは話さない。はそれに気付いたけれど指摘はせず、「ええ」とか「あぁ」とか「そうですね」とか、曖昧極まる相槌ばかりを返してやった。はやく学校につかないかな、という思いばかりが募っていく。学校につけば、この幼馴染が離れる名目ができる。いますぐ走って逃げてやろうかとは道中何度も勘案したのだが、見た目通りに運動神経抜群の彼から逃走するには、の足腰は貧弱に過ぎた。

 自分はどうやら嵐山准を苦手にしているらしい。そう気付いたのは四年前。それからは極力彼は関わらないように過ごしてきた。嵐山が中学に進学して、自分が小学校に取り残されたときは心底ホッとした。しかしすぐに自分と彼の年の差では、また同じ学校に通うことになるのだと気付いて絶望した。私学へ通わせてくれと親にねだるにはあまりにも根拠や経済的余裕がなかった。だってはただ嵐山と距離を置きたいだけだった。特別勉強ができるとか、ここにしかないなにかを習いたいだとか、そういう特別な理由がないと経済的余裕を後回しにしてまで私学には通わせてもらえないのが庶民の庶民たる由縁だ。

 嵐山の弟妹や、彼の従姉妹にあたる小南桐絵に関しては、そこまで苦手じゃない。彼らにも特有の匂いはあるけれど、嵐山ほどじゃない。嵐山には「何年も会っていない」とは言ったけれど、いまだって小南とは街中ですれ違えば世間話や互いの近況ぐらいは交換するし、彼の弟妹とは折に触れて歓談する仲だ。

 が苦手なのは嵐山一人だけ。

 中学にあがって、小学校よりずっと多くの匂いを知ったけど、でもやっぱり、意図的に避けるほど苦手なのは彼だけだ。


、大丈夫か?」


 先程より低い角度から覗きこまれてハッとした。知らず思案に耽っていたらしい。まさかこちらの考えが読まれていたとは思わないが、それでも心臓は跳ねる。彼女が返事を紡ぐよりもはやく、嵐山は頼りなくぶら下がっていたの右手を掴んだ。不意打ちの他人の温度に、はびくりと肩を揺らす。


「やっぱり。ほとんど氷じゃないか」


 はあ、と嵐山は握ったの手に白い息を吐きかけた。自らのすり合わせる両手にの手を挟んで、そうするのが当然といったように温もりを作り始める。は「なにをするのか」と声を荒げられなかった。空転するばかりの思考では、意味のある行動を弾き出せなかったのだ。

 十秒程して、やっと右手が解放された。

 と、鼻の頭を赤くした嵐山がまたの目を覗く。


「ほら、もう片方も」

「い、いいです。結構です!」


 我に返ったは最前までの生返事とは打って変わって強めに拒絶を示したのだが、


「でも、そっちも冷えてるんだろう」

「だ、大丈夫です。もうコートに突っ込んでおきますから」

「それじゃ転ぶ」


 嵐山に片手を取られても同じことだと思うのだが。しかしがうまい断り文句を考えている間に、彼はもう片方の手もさらっていってしまった。慌てて取り返そうとするが、その前に嵐山の上着のポケットに、彼の片手と一緒に突っ込まれてしまった。

 また、不意打ちの温もり。


「温かいだろ」


 嵐山がどこか得意気に笑う。年下の面倒を見る兄の顔だった。


「カイロ入ってるからな」


 嵐山は「温まるまでそのままでいるといい」と言って歩き出した。は思わずつんのめりそうになって、けれどいまここで転ぶとまた嵐山に手を焼かれるに違いないから、腹に力を入れてぐっと堪えた。全然転びそうになんかなってないふりをして、彼に引っ張られる手のあとを追う。

 鼻がくらりとした。嵐山の背中を追ったせいだ。自分はこれが嫌なのだと、は二年前に気付いていた。



 年上の幼馴染は、目の眩む匂いがする。





top | Next

inserted by FC2 system