勘違いチェイン
「これ、どうぞ!」
突き出されたのは、一枚の封筒。
まだ年若い、麗しいといって差し支えない少女に勢い良く頭を下げられていた。
服の裾より覗く首元から耳まで満遍なく真っ赤に染め上がった彼女の様子は、見るからに“いっぱいいっぱい”で。自分に持ちうる限りの勇気を総動員して俺に声をかけてくれたのだとすぐに分かった。
「……俺に?」
自分を指差し、一応確認してみる。
こくこくと頷く少女。
そういうことなら遠慮なく、と俺が受け取った瞬間、彼女は首を垂れたまま言った。
「北国銀行の公子様までお願いします!」
「……。……あ、はい」
そりゃそうだ。一瞬とはいえ期待した己に失望する。
こんな可愛い女の子が俺に声をかけてくれるなんて、仕事以外に有り得ない。
「なにとぞ、なにとぞよろしくお願いします! 郵便屋さん!」
少女は俺を仙人か岩王帝君のように拝みまくる。ぱんぱん、と稲妻式の柏手まで打ち始めた。使えるものはなんでも使う気持ちなのかもしれない。
「もちろんです。あなたの気持ちは必ずお届けします」
俺の愛想笑いと相反して、パッと明るくなる少女の顔。
よろしくお願いします、ともう一度頭を下げてから、彼女は弾んだ足取りで去っていった。まるで人生最難関の試練を乗り越えたかのような爽快さだった。
……脇道とはいえ、まだ人目のあるチ虎岩の一角。
溜め息なんかついて、ああアイツ余計な期待したんだな、とか他人に察されるのは勘弁したい一心だけで、喉までせり上がっていたそれをグッと我慢。
少女に渡された封筒を失くさないよう、丁重に鞄に収める。
何事もなかった風に装って十歩も進めば気分も切り替わった。
彼は『郵便屋さん』だけれど、実のところ自称したことは一度もないらしい。
冒険者の一人として依頼をこなしている間に、そう噂されるようになったのだとか。次の場所へ行くついでだからと届け物を引き受けていたのが一因らしいが、誰がそう呼び始めたのかは定かではない。
どこの生まれかも不明。名前の響きや所作の雰囲気から稲妻ではないか、と思われたが、証拠がないため推測の域を出ない。
人里から秘境へ、秘境から都市へ、都市から他国へ。
風に乗る蒲公英めいて各地を飛び回る足を縛る鎖はない。モンドにいたかと思えば稲妻に、稲妻で確認されたと思えばスネージナヤにいるのが彼という存在だった。
単独で各国を易々と行き来する様子から、人並み外れた実力者なのは疑いようもないが、どこかの組織に属しているなんて話もなければ、実力の程すら計れた者もいない。日銭のために冒険者協会をたびたび利用しているようだけど、そこにだって彼の正体を掴めた人間はいなかった。真偽定まらぬ噂によれば『郵便屋さん』の情報一つに多額の報酬が出るとか出ないとか。
空に漂う浮雲のようなその男に、タルタリヤは何度か会ったことがある。
会うこと自体はひどく容易いのだ。依頼をすればいいだけなのだから。
その足を一ヶ所に縫い留めることができないだけで。
……最近のタルタリヤは考えていた。ファデュイの仕事は一切関係なく(聞くところによれば執行官の中には彼に強い執着を持つ者もいるらしかったが)、個人としての興味の範疇で、どうにか『郵便屋さん』を捕まえられないかと。
神出鬼没な功績から、一角の武人であることは間違いないので。あわよくば手合わせ願いたい、とも。
北国銀行の一室。
ファデュイの実力者として処理すべき案件たちと向き合うための執務室の窓から覗ける、緋雲の丘の街並みを見るともなしに眺めながら『郵便屋さん』捕獲作戦を考えていると、
「こんにちは」
ニュッ、と目標の生首が窓の上部から突然生えてきた。
油断していたわけではないが、不意を突かれたタルタリヤは手にしていたペンを思わず取り落とした。完全に気配を消していた相手に叫び声をあげなかっただけ上出来、と気持ちを取りなす。
「……こんにちは」
どうやら『郵便屋さん』──は屋根にしがみつく体勢らしい。普通に正面玄関から訪問すればいいのに、と思わないでもない。
生首の横に、数枚の封筒を掴んだ手が生えた。
「きみ宛だ。どうぞ」
ポイ、と気安く投げたようで、そのすべては意図されてタルタリヤの前にある机上に着地した。重さのない紙類を──しかも複数──もれなく狙った場所に運ぶ技術に、タルタリヤの胸が疼かなかったと言えば噓になる。
封筒はすべて異なる色彩で、公私入り混じる内容だと外見で判断できた。ファデュイも『郵便屋さん』を利用しているのかと呆れる心と、彼がタルタリヤの故郷にも訪れてきたのだと分かってほんのりと温かくなる感情が胸中で入り混じる。
「俺の家族にも会ったんだ?」
「そう名乗る人には」
「誰?」
「年頃から妹さんかなと」
「そっかそっか、前の返事かな。元気そうでよかったよ」
タルタリヤは妹からの手紙を、他の仕事関係のものから引き離すように手に取った。
封は切らない。天井の明かりに透かし、故郷を遠見するが如く思いを馳せる。
「海屑町はどうだった?」
「ちょっと寒いが、いいところだと思ったよ」
「ははは。璃月港に比べたらスネージナヤはどこだって寒いだろうね」
……おや、とタルタリヤは違和感を抱いた。
妹の手紙を懐にしまいながら、未だ窓から首だけでこちらを見ている彼と目を合わせた。
「が世間話に付き合ってくれるなんて珍しいね。いつもなら『用は済んだ』とか言ってさっさとどっか行っちゃうのにさ」
「そうしてほしいならそうするが」
「待って待ってそんなわけないでしょ!」
思わず椅子から立ち上がってしまった。
些か大きな音を立てられても、は動じた気配一つ見せなかった。
いまの動きが踏み込みだったらどうするつもりだったのだろう。タルタリヤが襲ってこないと思っているのか、襲われてもどうにかできる自信があるのか。後者だとしたら、つい実行したくなってしまいそうだ。
「ちょうど考えてたんだ。を一ヶ所に留めるにはどうしたらいいのかな、って」
せっかく立ち上がったので、タルタリヤはそのままのいる窓枠まで近付いた。少しだけ首を反らせば彼と容易く視線が合う。
「なんでそんなことを?」
「がすぐどっか行っちゃうから」
タルタリヤの返答に、は心底不思議そうな顔を見せた。どうしてそんなことを、そんな理由で考えるのか分からないとでも言いたげだった。
「……きみが俺を留まらせたい動機はピンとこないが……そうしたいなら、そういう依頼をしてくれればいいんじゃないか?」
「え」
タルタリヤはまた不意を突かれた。ぱちぱち、と素で瞠目してしまう。
「頼めば、いてくれるの?」
「そういう依頼なら」
「じゃあいますぐ、」
「でもいまはダメだぞ」はぴしゃりと言う。「既に受けた依頼より優先はできない。今後の信頼に関わる」
「……あ、そう」
とんだ肩透かしを食らった。しかし言質を取れたのは大きい。
「なら。いまの最後尾に俺の予約を入れておいて。『いま引き受けている依頼を全部片づけたら、俺の目の届く場所に留まる』って依頼」
「了解。ちなみにその期間は?」
「あー……考えてなかったな。きみが来る頃までに決めておくよ」
「きみには言うまでもないが、長ければ長いほど報酬は弾んでもらうぞ」
「承知の上だよ」
ならいい、とは言って──依然去ろうとしなかった。
タルタリヤはいよいよ不可思議になってきた。
北国銀行に長居したい理由でもあるのだろうか。
もしくは──ファデュイに敵対する何者かより諜報の依頼でも受けたか。
タルタリヤの胸中に吹いていた春風が一瞬にして凍えきる。
知らず手指の調子を確かめていたタルタリヤに、
「────すまない。嘘をついた」
は諦念を込めてそう言って、屋根からタルタリヤの前に舞い降りてきた。
「今日きみに渡すべきものは、実はもう一つある」
見えなかった方の手にずっと掴まれていたらしい、一枚の封筒。
楚々とした風体に走るしわの数が、の葛藤を物語っている気がした。
「……なにこれ?」
「見ての通りだ」
「────────」
タルタリヤは絶句した。
……だって、そんな態度で、こんな文脈。
凡人一年目な往生堂の客卿でも「なるほど」と手を打つに決まっている!
先程まで氷雪もかくやというほど凍えていたタルタリヤの胸中は、急転直下の勢いで大火を宿した。混乱と祝福の渦に吞まれた思考はとうに役立たずだ。
「い、いま読んでいい?」
ほんのわずかとはいえ、口ごもった自分に舌打ちしたくなる。
「どうぞお好きに」
タルタリヤに呆れたというより、ここまで長引かせた自分に失望した様子では息を吐いた。
うるさい耳鳴りの中、それでも冷静なタルタリヤがああ、と膝を叩いていた。
───そういうことだったのか、とそのタルタリヤは言う。
───が去るたびに寂しかったのは、
そんな自分の言葉を聞きたくなくて、しばしタルタリヤは封を切る作業に没頭した。
開かれた中身には丁寧な字でタルタリヤへの想いが綴られていて────
「…………………………は?」
───末尾にあったのは、の名前ではなかった。
まったく知りもしない女のそれだった。
「読んだな」
よし、とでも言いたげに頷く。その表情は実につまらなさそうだ。
「彼女への返事が仕上がったらまた呼んでくれ。……いや、きみ直々に赴く方が彼女の想いは報われるか。まあ返事の手段は俺に依頼されたところじゃない。やりやすい方法を選んでくれ」
「ねえちょっと」
「じゃあな、タルタリヤ。俺は次の依頼があるからこれで」
「ちょっと!」
タルタリヤが呼び止める頃には、は窓から身を躍らせていた。
窓枠にしがみつけば、緋雲の丘をすたすたと抜けていく彼の背を目にする。
……執務仕事さえなければタルタリヤも彼に倣って部屋を飛び出していたところだ。
タルタリヤは万感の思いで歯噛みしたい思いだった。
ひとに自覚させるだけさせておいて、自分は関係ないとばかりにいなくなるなんて。もっと気兼ねなく発散できるタイミングで顔を出してくれれば、こんなにおとなしく見送ってなんてやらなかったものを!