花のような女だった。
 いまはもう、それしか思い出せない。










「ダメダメダメッ!」


 そんな声がして、横合いから思いきり引き込まれた。

 夏油傑を物陰に引き入れた女は、腕を掴む力をグッと強くして、驚く青年を強い眼差しで見上げた。

 公立のブレザー制服を着た女子高生。その脇に挟まれた鞄は見るからに薄くて軽い。学生の本分より自らの趣味を優先するタイプに見えた。


「いまあっち、あの、変質者がいるから! 行かない方がいいと思う!」

「……それできみはこんなところに隠れてるの?」

「あー、まあ、そんなとこ」


 煮え切らない返事の少女に、夏油は「ふうん」と素っ気ない相槌を打った。


「もう見るからにヤバい奴だから、マジで近付かない方がいいと思う。あっち帰り道? なら回り道していった方がいいよ」

「分かった分かった。私が退治してくるよ」

「いや話聞いてた!?」


 マジでヤバいんだって、と少女は荒い語調で、歩み出す夏油の腕を引いた。

 その形相は鬼気迫るものが宿っていた。嘘をついているようには、とてもじゃないが見えない。

 だが夏油は、あちらの路地にこそ用があるのだ。彼女の言うように『ヤバい変質者』がたむろしていても、引き返す理由にはならない。むしろ「もののついでに祓ってやろう」ぐらいの気持ちだった。


「ダメ、やめとけってホント! 危ないから!」


 腕にくっついた少女を引きずってでも目的地に向かおうとする夏油を止めきれないと踏んだのか、彼女は「あーもう!」と苛立たし気に叫んだ。


「──信じられないかもしれないけど、あっちには化け物がいるの! 食われて死んでも知らないよ!?」


 夏油の足が、はたと止まる。
 それは変質者の話より、彼の気を引く情報だったのだ。


「化け物?」


 振り向いた夏油に、少女は彼が立ち止まったことを嬉しがる顔で何度も頷いた。


「そ、そうなの! あの、だから、ホントやめたほうが……!」

「きみ、見えてる、、、、のか?」

「……はい?」


 ──夏油傑は単独任務に赴いていた。

 ビル街の路地を根城にしている呪霊討伐が目的だったその日、彼は彼女に出会ったのだ。










 術式は備えずとも先天的に呪霊が見える体質の人間というのは、そこそこいる。窓に採用されるのは、その類がわりと多い。見えるものは仕方ないから、自分の地域が少しでも住みよくなるよう協力しよう、というやつだ。おかしな使命感を持つ輩は暴走しやすいので、嘘か真か、高専側でもドライなタイプを窓に採用しやすいと聞いている。

 彼女は窓ではなかったが、そういった人間だったようだ。

 路地に住み着いていた呪霊をあっさり祓った夏油を指して「まさか陰陽師?」と呆然とした彼女は、どう考えてもこっち側、、、、の人種ではない。

 補助監督が後始末をしている間の時間潰しに、夏油は少しだけ説明してやることにした。


「陰陽師じゃなくて呪術師ね。あと、アレは化け物じゃなくて呪霊。そういう存在だよ、我々は」

「じゅずつち」

「思いきり噛むな」


 たしかにジュジュツシは言いづらい単語ではあるけれど。

 ビルの谷間で、コンクリートの壁に背を預け、二人は並んでいた。

 単語と状況を繋げるのに難儀しているのか、少女の表情は硬い。ローディング画面のコンピューターのように、空に向けた人差し指をぐるぐる回している。


「つまり、えーと……夏油くんはそのじゅじゅつちで」

「呪術師ね」

「私がいままでさんざん追い回されてたアレは、呪霊っていう生き物」
生き、、物と定義していいかは怪しいけどね」

「──夏油くん、連絡先教えて」

「なんで」


 携帯電話を取り出した少女に、夏油は笑顔で言い返した。


「だって呪霊ああいうの見つけたら、きみに連絡すれば倒してもらえるんでしょ?」


 安心できる、と胸を張る彼女に、夏油は慣れぬ親切心なんて出さずに即刻高専に帰るべきだったと後悔した。たかだかあの程度の呪霊に怯える少女の不安を拭うためだけに、毎回わざわざ自分にこんなところまで出張れというのか。


「……いいよ。はい、これ」


 夏油が教えたのは、高専の補助監督の連絡先だった。

 呪霊の情報を得られるのは高専側として捨てがたい。なにより、面倒だからと安易に非術師を見捨てるのは夏油の矜持に反していた。少女の不安を拭うのは派遣されてきた別の高専生なり呪術師なりだろうが、彼女の運が良ければそれは自分かもしれない。


「ありがとう。これからよろしく!」


 心底嬉しそうに、少女は花が咲いたような笑顔を浮かべた。

 ……嘘を教えたことにはなるまい、と夏油は胸中で言い訳した。










 ──そんなことがあったのに。

 わざわざ自分から尋ねてきたくせに。あの連絡先を使いもせず(補助監督に確認したので間違いない)、大型の呪霊に追いかけられて泣きべそかいていた少女に遭遇したとき、夏油は「こいつバカだ」と確信した。


「……なんっで……きみは、電話してこないんだ……!」


 夏油がギリギリで機転をきかせなければ、少女は抵抗むなしく呪霊に食われていただろう。

 肩で息をする夏油の腕の中で、彼女は顔面の穴という穴から水分を垂れ流していた。「その件についてはまことに申し訳なく思っており」などと、政治家の釈明のような言葉をぶつぶつ漏らしている。


「言い訳はいい」


 そのすべてを、夏油はピシャリとはねのけた。


「私はどうしてもっと早く連絡しなかったんだと聞いてるんだ」


 夏油が滑り込めたのは偶然だ。

 たまたま、寄り道をしていたら。
 たまたま、呪霊の位置特定が遅れたら。

 そんな『たまたま』が一つでも生じていたら、少女は間違いなく死んでいた。結果セーフだったからと軽視すれば、二度目に繋がる。

 彼女のために、夏油のために、しっかりと問い詰めておく必要があった。


「……夏油くんに連絡したら」


 少女はいっそうひどい泣き顔になった。


「うん」

「来るでしょ」

「当たり前だろ」

「だからしなかった」

「は?」


 何を言ってるんだこいつは。

 思わず表情を失った夏油に、「だから」と少女は目を逸らした。


「夏油くんが、死んだら、イヤだなって思った」

「私があの程度の雑魚に負けるとでも?」

「思わないけど」

「じゃあ、なんで」


 苛立ちを募らせる夏油から、彼女は逃げるように身を捩じった。


「……万が一があるかもしれないじゃん」

「私が雑魚に負けると思ってるんじゃないか」

「あだだだだだおおえたつえんあいでほっぺたつねんないでー!」


 自分が命の危機に晒されてなお、たった一回会っただけの夏油を優先した彼女の行動を怪しんで高専で確認してみれば、案の定だった。

 少女の両親は、呪霊に襲われて数年前に死んでいた。

 当時の呪術師の記録によれば、現場で息をしていたのは幼い娘だけだったという。それが彼女だ。その精神的外傷がいまも治癒していないのだろう。

 あのバカは、自分が気をつけてやらないと、きっとそのうち死ぬ。

 ああ面倒だな、と夏油は重い溜め息をついた。






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