「窓になろうかと、」

「やめなさい」

「まだ最後まで言ってないんですけど」

「ほとんど言ったようなものだろう。やめろ」


 きみには向いてない、と夏油はかぶりを振った。向かいに座る少女が、目に見えてふてくされる。

 その顔に負けてなるものかと夏油は表情筋を引き締めた。不満を表明すれば無理が通ると思い込むのは勝手だが、それで困るのは彼女だ。

 夏油が暇を見て少女の下へ足を運ぶようになって、もう半年が経っていた。

 その間に、二人は(なんと同い年だった)それぞれ一年から二年へ進級していた。夏油の装いにこれといった変化はなかったが、少女のブレザーはネクタイの色が緑から赤へ変わっていた。

 流行りのカフェには彼らと同年代の客が多く、学ランとブレザーという異なる衣装の二人が窓際の席を陣取っていても悪目立ちはしなかった。


「最近は夏油くんの言うとおり、高専に連絡もしてるでしょ。だから言われたんだよ。もう正式に窓になっちゃえば、って」

「さっきも言ったが、きみには向いてない」

「正式な窓になれば出来高でお給料も出るし」

「その分危険が増えるってことだ」

「でもいまとやってること、変わんないじゃん」

「報酬を目の前に吊るされたら、きみは無茶をするタイプだろ」


 少女が口を尖らせ、舌を止める。夏油が図星を突いたからだ。


「いままで通りでいいだろ。これ以上何かを抱え込むのはやめておきなさい。きみ、ただでさえこの前の中間試験、かなり下の順位だったんだし」

「は!? 夏油くんにその話してないんですけど!?」


 なんで知ってるの、と目を剥いた少女に、夏油は笑顔で自分の右肩辺りを指差した。彼女の視線が夏油の顔から横に滑っていく。ちょこん、と座している小型呪霊を目にした瞬間、少女の表情が大きく歪んだ。


「勝手に覗き見するなって言ったよね!?」

「きみが隙あらば黙秘するのが悪い。きみの安全を重視した結果だよ」

「だからって成績まで見ないでよ! プライバシーの侵害だ! 夏油くんは私の親か!?」


 親、という単語に夏油は片眉を動かしかけたが、当の本人は大して気にした様子もなく愚痴をぶつくさ言い続けていた。……気にしていないなら、それでいい。


「そうだな。きみが期末試験で上位五十名に入れたら窓になってもいいよ」

「それ遠回しが一周回ってドストレートに無理を突きつけてるからね?」


 信じらんない、と拗ねた顔でアイスカフェラテのストローをくわえこんだ少女に、夏油は知らず笑っていた。いつしか彼は、会うたび彼女に相好を崩されるようになっていた。










 天内理子が死んだ。










 二人が出会って、二回目の春。
 彼らはそれぞれ三年生の肩書きを得ていた。


「夏油くん顔ヤバいよ」


 指を突きつけられて、「人を指差すんじゃない」とそれを取り下げさせる気も湧かなかったことに、夏油自身が驚いた。これはたしかに疲労の症状だ。

 彼女のアイスカフェラテはもう半分を下回っていたが、夏油のブラックコーヒーはまるで減っていなかった。これも怪しまれた一因かもしれない。


「……そんなに重症か? 高専では何も言われなかったんだが」

「え、マジでヤバいの?」

「は?」


 夏油が思わず顔をあげれば、彼女はもっとキョトンとしていた。


「なんとなく言ったら当たっちゃった。ごめん」

「……いま初めてきみを殺したいと思った」

「だからごめんって」


 からからと笑ってグラスに差したストローをくわえた少女に、嘘じゃないんだ、と夏油は胸中で告げた。

 嘘じゃない──冗談にできない。一度考えてしまうと、どうにもならない。こうしているいまも無邪気に呪力を垂れ流している彼女を、自分は殺したいと思っている。

 おまえが呪霊を生み出しているのだ。
 おまえが世界に無情さをもたらしているのだ。


「なんかあった?」


 目の前で視力を確認するように手を振られて、夏油はハッと我に返った。


「……言ったら、きみがどうにかしてくれるのか」

「ムリムリ。夏油くんに解決できないことなんて、私の手には負えないよ」


 アイスカフェラテをすっかり飲みきって、彼女は笑った。
 この三年間で何度も見た、この場一帯で花が咲くような笑みだった。


「でももし手伝えそうなことだったら、いつでも言って。なんでも協力するからさ」


 ──それはたとえば、きみに死んでほしいという願いでもか?

 夏油は閉口し、曖昧に笑い返した。
 彼女に頷いてみせることは、できなかった。










 二ヶ月後、夏油ははじめて会ったビル街に彼女を呼び出した。

 どこではじめて顔を合わせたかなんて至極どうでもいいことのはずなのに、そんなものを忘れず覚えていた自分に、夏油自身が驚いた。待ち合わせ場所への道すがら、そういえばこの物陰に連れ込まれたんだった、そういえばこの路地で彼女は呪術師と言えなかったんだ、なんて次から次へと益体もないことばかり思い出した。そのすべてが余さず彼女に関連するものだった。

 最初は関わることすら億劫だった。

 それがいまや、この有様。

 彼女が四季を問わずアイスカフェラテを好むこと、彼女が勝負の日には右足から踏み込むこと、彼女が元は右利きだったけど部活のために左利きに矯正したこと、彼女が両親の墓参りに行くと静かに涙を流していること、彼女がそれを決して他人には悟らせないこと、彼女が、彼女が、彼女が────いつの間にか、夏油の中に自分のスペースを形作って居座るようになっていた。

 たぶん、いま彼女について世界でもっとも詳しい人類は夏油傑だ。

 だからこのままではいられなかった。


「また痩せた?」


 廃虚同然のビルの屋上に、鍵はかけられていなかった。

 そこで風に吹かれていた少女は、やってきた夏油を見るなりそう言った。ブレザーのネクタイは赤から青になっていた。


「そう見える?」

「すごく」


 今度はカマかけじゃないよ、と彼女は腰の後ろで手を組んだ。

 二ヶ月前のやり取りを覚えていたのか、と夏油は少し愉快に思った。彼女の中にも、自分が居座っている空間はあるらしい。

 少女の隣に並んで、少しだけ黙って風に煽られた。

 錆びついていまにも壊れそうな柵の向こうには、はじめて彼女と話した路地が見えた。


「これ見てくれる?」


 彼女は素直に、夏油が差し出した携帯電話の画面を覗き込んだ。


「誰これ? 女の子? ……まさか!」

「誘拐じゃないから」言うと思った、と溜め息。「保護だよ保護。菜々子と美々子っていうんだ。まだ十歳にもなってない。かわいいだろ」

「うん。かわいい。保護ってことは、呪術師とかそういう関係?」

「正解。私は彼女たちのおかげで吹っ切れたんだ」


 携帯電話をしまい、夏油は彼女に向き直った。


「私はきみたち非術師さるが嫌いだ。全員殺してやりたいと思ってる」


 少女の目はまっすぐに夏油の言葉を受け入れた。
 揺れないどころか、波紋一つ立たなかった。


「そっかぁ」

「今後この思いが覆ることはないだろう。ここに来る前に両親を殺してきた。決意表明みたいなものだね」

「それは、なんていうか、すごい」


 少女は自分を納得させるように頷いた。


「じゃ、私も殺すんだ」

「そのつもりで呼び出したからね」

「だよね。……制服着てきて正解だった」


 夏油は怪訝に眉をひそめた。
 制服がなにか関係あるのか、と尋ねるまえに、彼女が言葉を続ける。


「遺体の身元特定がしやすくなるでしょ」

「私がきみの血液一滴残さない可能性は?」

「それはない」


 少女は笑った。夏油がよく知る笑みだった。


「夏油くんは優しいからね」


 言いながら、少女は夏油を置いて前に出た。弾むような足取りで錆びついた柵を乗り越える。屋上の縁に立った彼女は、半身で夏油を振り返った。


「……ごめん、やっぱり怖い。手だけ貸してもらっていい?」


 夏油は黙って彼女の後ろに立った。
 同じ直線上に、柵を隔てて、別のところに立つ。

 背中に手を添えると、彼女の肩がビクリと揺れた。


「最後に聞いていい?」

「いいよ」

「夏油くんの物言いだとさ、死んだあとの人ならセーフ?」

「……つまり?」


 彼女の意図することが分からなくて、夏油は首を傾げた。

 少女は頬を膨らませ「……だからぁ」と、死の瀬戸際に立っているとは到底思えない照れた顔を見せた。


「死んだあとの私なら、夏油くんに好きになってもらえるかって訊いてるの」


 ああそういうことか、と腑に落ちた夏油は躊躇わずに答える。


「それは無理だ」

「マジか」

「私はもうずっときみのことが好きだった」


 彼女が弾かれたように振り返った。

 いつにもまして真ん丸になった瞳も、これが最後だと思うと視線を逸らすのが惜しくて、夏油は正面から見つめ返した。


「これ以上好きにはなれない」


 彼女はポカンと口を開け、耳まで真っ赤に染めたあと──過去最高の笑顔を見せた。自分やこの一帯どころか、世界すべてを花で埋め尽くすような笑みだった。


「……じゃあ仕方ない」


 彼女は前に向き直った。


「また会える?」

「地獄でなら」

「よかった」


 紙切れのように薄い背を、押した。


「先にいってるね」






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