クレープ食らわば毒まで





「マネージャー」

「マネージャー」


 私が呆然と繰り返すと、念を押すように古橋がこくりと頷いた。

 己を指差し、私は機械みたいに抑揚なく言ってしまう。


「私が?」

「きみが」


 霧崎第一高校の廊下は騒然としていた。登校してきた生徒たちでごった返している。私と古橋の会話など、誰も気に留めていないだろう騒々しさだ。都内有数の進学校とはいえ、高校生の習性なんだから他校とそう差があるわけじゃない。平時ならそれを意識することなどなかなかないのだが、今日はやけに耳に入ってくる。

 教室に入る寸前の私を捕まえた古橋とは、去年同じクラスだったので人並み程度の親交があった。人形さながらの凍り切った無表情とは裏腹に、内面は意外と熱血系である彼は、些か以上に負けん気が強い。勝利に執着するきらいが強いこともあって、悪の四天王の三番手あたりが似合いそうな性格をしている、と私は勝手に思っていた。失礼なことだと自覚しているので、当然口には出さない。


「……待って。ちょっと、待って。思考回路ショート寸前だから」


 手をかざして制止すると「今すぐ会いたいのか」と古橋は冷淡な調子で乗ってきた。こいつもセーラームーン見てたのかよ、と思ってからすぐに、セーラームーンを見る古橋を想像して寒気がした。同世代なんだから彼も私と同じくいたいけな幼少期に観賞していたことは間違いないのだが、いかんせん私が知っている古橋は図体のでかい高校生の姿のみであり、自然想像の中の古橋もいまのサイズになってしまうのだった。基本的に無表情の男子高校生がセーラームーンを見ている絵面、非常にきついものがある。


「……古橋くんってバスケ部、だったよね」

「あぁ。よく覚えてたな」


 赤べこみたいに首肯した古橋は、うっすらと汗をかいていた。冬服をいくら着込んでも凍えてしまいそうなこの時期に、登校してきただけで汗腺が働く筈もない。朝練が終わったばかりなのだろうとすぐに分かった。


「バスケ部って……花宮が全体的に指揮取ってんじゃなかったっけ。風の噂で監督もコーチもマネージャーも、部長と兼任してるって聞いたけど」


 あいつ頭いい馬鹿だよな、と友人からこの話を聞いたときに抱いた感情を思い出す。およそ一人の人間が背負い切れる責務ではないだろうに……。そこまで考えて思わず舌打ちしたことまで芋づる式に想起してしまった。それほどの仕事をこなせる奴なんて、と無意識に考えたとき「この程度は新陳代謝と一緒だ」と軽く言いながら悠々とこなしてしまう男の顔まで浮かんでしまったのだ。

 当時のことを振り返っていたら、知らず表情が苦くなる。そんな私の心情を知ってか知らずか、古橋は能面のまま話を続けた。


「あぁ。今まではそれで事足りていたんだが……W・Cウィンターカップ以降、練習が一層ハードになってな。花宮の負担が増えているんだ」

「……自業自得なんじゃない?」


 そのハードになった練習内容を決めているのは監督でもある花宮なのだろうし。


「一理ある。……だけど、あいつは負担が重くても顔に出さないだろう」

「あぁ、うん。そういうタイプだよね、花宮って」


 めちゃくちゃ辛くても「んなわけあるかバーカ」って減らず口叩く人種。B級映画に出てくる相棒黒人枠みたいだよな、とバズーカ砲を構える花宮を想像すると、あまりの似合わなさに憐憫すら湧いてきた。バスケ選手らしくしっかりした体の持ち主なのに、一見すると貧弱な印象を受けるのは彼の骨格のせいなんだろうか。

 古橋は「そうなんだ」と話の穂を継いだ。


「練習内容に不満はない。実際成果も出ているからな。……だが、それで花宮が倒れでもしたらと思うとな。部員の総意として、減らせる負担は減らしていこう、となった」

「……あいつ意外と人望あんのね……」


 意外―――でもないのか。私は彼の本性を知っているけど、依然学校では花宮は優等生の皮を被って生活している。委員会の後輩が花宮に熱を上げているなんて噂も耳にしたぐらいだ。あの良い子ちゃんモードしか知らない奴が大半だとしたら、花宮が人気者でも違和感はない。

 それでも面白くない心地はあった。片眉を上げた私を見下ろして、古橋は目を瞬かせる。表情筋は一切仕事をしていなかったが、そこからはわずかな驚きが見て取れた。


「……赤司。おまえ、知ってるのか」

「知ってるって、何が」

「何が、って、それは――」そこで言葉を探すように一旦区切ってから。「……化けの皮、というか。花宮の本音を」


 だいぶオブラートに包んだな。

 この様子だと、古橋も花宮の本性を知っているようだ。なのに彼を慕うとは、奇人か狂人の類か。過去のクラスメートとの付き合いを見直すべきかと考えながら、私は目線だけで是を示す。


「ちょっと前にね。……その辺も考慮して私にマネージャーの話なんか振ってきたと思ってたんだけど、違ったの?」


 古橋はまた言葉を選ぶように視線を虚空に向けてから、やや意外そうに私を見据える。


「……あぁ。少なくとも、俺の目には――花宮はおまえと話すときが一番気楽そうに見えたから」

「は? 目ェ腐ってんじゃない?」


 間髪入れず言い返すと、古橋はぼそりと「ルイトモか」と呟いた。花宮あんなのと同類にするな。

 学校での私と花宮の関係なんて、クラスメート以下であっても以上はない。顔を合わせる度に穏便に、かつ互いにしか分からない意味合いの皮肉で殴り合っているようなものだ。内情を知らない友人には先日「アンタもついに花宮くんの良さに気付いたのね!」なんて感涙されたけど、即座に誤解だと否定した。

 私と話しているときの花宮を思い出す。必要最低限――いや、必要であっても極力関わらないで済むようにお互い便宜を図っていた筈だ。それでも回避しきれず言葉を交わすことはあっても、取り立てて他者への対応と違う点はなかったように感じる。


「……まあ、理由は何でもいいわ。私やる気ないし。ごめんなさいね」

「何故だ? 何か部活をやっているわけでもないんだろ。マネージャーをやっておけば内申有利だぞ」

「そういう現実的な線で攻めてくるのは嫌いじゃない」私は肩を竦める。「でも、やらないから。マネージャーなんて、私よりもっと手軽にこき使えそうな人材がいるでしょ。そっちにコナかけてみなさいよ」

「――そうやって煙に巻いて、結局理由は言わないつもりか」


 突然介入してきた第三の声に、私も古橋も反射的にそちらを向いた。

 古橋と同じく、朝練を終えてきたらしい花宮もうっすらと汗をかいていた。古橋より登場が遅かったということは、部長らしく体育館や部室の施錠でもしていたのかもしれない。


「だから何? 私はやらない。結論は変わらないのに、理由なんて言う必要ある?」

「ないね」


 花宮が一気に顔を近付けてきた。どちらかがバランスを崩せば顔面による突撃事故が起こしかねない距離で、彼はニヤリと笑う。花宮の声色が優等生モードのそれではないことにもっと早く気付いておけば、私は彼の言葉なんかに耳を貸さなかった。


「俺には分かってっからな。――大嫌いなお坊ちゃまに会う可能性なんて、ミクロン単位だろうと踏み潰しておきたいんだろ」


 ……本当に―――この男は。

 図星をつかれた私が即座に反撃できないのを好機と見て、花宮はつらつらと続ける。私だけ、あるいは近くにいる古橋ぐらいにしか聞こえない程度の音量で。


「来年、俺たちはそのお坊ちゃまを潰しがてら全国に行く。そのとき、おまえは現場にいなくて満足できるのか? 後から他人に聞くだけでいいのか? 大嫌いな赤司征十郎が負ける様を見たくないのか?」


 まるで悪魔の囁きだった。知らず生唾を飲み込む。

 花宮の言葉は、ひどく蠱惑的だった。赤司征十郎が負ける姿なんて、見たいに決まっている。今年のW・Cウィンターカップで披露されたという、彼の敗北を見逃した私にとっては尚更だ。赤司征十郎の敗北場面を肉眼で見ることができたなら、人生におけるありとあらゆる未練がその場で消えてしまうかもしれない。

 だけどそれは、赤司征十郎と顔を合わせることになる可能性と――花宮の指揮下で長期的に労働することが対価になっている。赤司征十郎の敗北には立ち会いたい。すごく見たい。全財産投げうってでも見たい。しかしその前に常時の赤司征十郎を目にせねばならないし、万が一相手に見つかったら、無駄に律儀な彼のことだ――「お久しぶりです、ねえさん」なんて丁寧に挨拶してくるに違いない。想像するだけで鳥肌が立つ。それより何より、花宮真の傘下に入るような真似は、人生最高に癪だった。

 誘惑に耐え切った私は、緩やかにかぶりを振ろうとした。そのときだ。


「やるべきことさえやってりゃ、俺はおまえに関わらない」


 花宮が余裕の笑みを崩さずに付け加えた。


「話しかけない。当然、部員扱いで命令もしない。おまえが望むなら対等な権限を与えてやってもいい。まあ仕事上やむなく声ぐらいはかけるかもしれないが、それも極力避ける」


 そこで花宮はちらりと私を窺ってきた。

 ……当選確実の宝くじ並みに魅力的になってきた。古橋が目を見開いて露骨に愕然としていることからも、花宮の言う扱いが破格だと分かる。先刻言われたようにマネージャーをやっておけば内申書に加算されることもあって、心の天秤がぐらぐらと揺れた。

 だけど、うまい話には裏があるもの。綺麗な薔薇には棘があるもの。花宮の言葉には毒があるもの。「乗っちゃいなよ乗っちゃいなよ」と囁いてくる悪魔の私を胸中で握りつぶし、やはり首を振ろうと決めた。

 そんな絶妙のタイミングで、また花宮は言葉を付け足す。


「……三日に一度、クレープを奢る」

「乗った!」


 無類の甘味好き――それもクレープが特に大好きな私は、ほとんど反射的に花宮の両手を握りしめていた。

 学生の財布は常に危機的状況なのだ。実家と不仲である私の財布など、ほぼ瀕死といっていい。「目を覚ますまで、自活しろ」と言い付けられていた。「目を覚ますまで」なんて大仰ぶった言い方をしているが、実際の意味合いとしては「本家に忠誠を誓うまで」だ。仕送りなど食費の足しになるかならないか程度の雀の涙。奨学金を獲得していなければホームレスになりかねない状態だ。

 当然、趣味に使える金などたかが知れている。新刊を買うときは三日分ほど食費を削るし、大好物の甘味なんて一ヶ月に一度食べれるかどうか。我ながらとんだ苦行だと思うが、本家に忠誠を誓うぐらいなら尼になってやろうとさえ最近は思っていた。

 花宮がどこから私の好物を突き止めたのか――無論私は話した覚えなどない――それさえ今はどうでもいい。三日に一度クレープを食べられるなら、放課後の数時間ぐらい働いてやろうではないか。

 突然手の平を返した私に、古橋は一層目を見開き、花宮は「交渉成立だな」と笑みを深くした。


「後で誓約書を持っていくから。血盟しなさいよ、血盟」

「おまえこそしっかり働けよ。マネージャーになる以上、俺への文句は受け付けねえぞ」

「私もアンタの注文なんて受けないから大丈夫よ」


 今ここに利害一致の契約が成立した。花宮が満足げに身を引き、私も思わず笑みが零れてしまう。

 ――今まで超至近距離に顔を寄せていた男女わたしたちが周囲から注目を集めていると気付いたのは、そのときだった。ハッとしたときには時すでに遅し。好奇が七割、嫉妬が二割、その他諸々一割といった塩梅の視線の雨が、それぞれ私と花宮に降り注いでいた。あれだけ騒がしかった筈の廊下は、今や痛いほどの静けさに満ちている。

 咄嗟に弁解の選択肢が浮かぶも、しかしどうやって、と思考が行き詰まった。いまは何を言っても信じてもらえないどころか火に油を注ぐような真似にならないか。焦慮する私をよそに、花宮は背後から誰かに話しかけられたらしく身を反転させた。


「……は、花宮くん。あの、ちょっと聞いてもいいかな」


 声音から推すに、どうやら相手は女子生徒のようだ。私以外に花宮の本性を知る女子はいない筈だから、彼も滅多なことは口にするまい。


「ええ、勿論です。何でもどうぞ」


 一瞬で優等生の皮を被った花宮の声色に、思わず一歩引いてしまう。
 古橋の背中に隠れようとこそこそ移動する。爆弾はそんなときに落とされた。


「あ、赤司さんと、どんな関係なの!? こ、こんな公共の場で密着するなんて……!」


 密着……? そう見えたなら古橋と一緒に眼科を受診した方がいい。どう考えても蛇と蛇が睨み合っている、いわば決闘の最中でしかなかった。彼女はプロレスの試合を見て、男たちが荒々しく組み合う様を見ても「密着!」と赤面するのだろうか。薄気味悪い発言に私の思考が刺々しくなった。

 対し、花宮は「ああ」と横顔に悠然と笑みを浮かべてみせる。


「恋人ですよ」


 …………? ………………………なんて?

 古橋の背中に隠れた私の身体がぴしりと硬直した。

 廊下は一瞬だけ静けさを増してから、一気に喧噪の存在を急上昇させた。この場に居合わせた全員の鼓膜を破らんばかりに、私と古橋と花宮の三人以外が驚愕を口から迸らせた。


「「「「「ええええええ――――――!?」」」」」


 最前以上の騒々しさを取り戻した廊下で、誰かが口々に好き勝手言い放つ。「恋人!?」「彼女!?」「彼氏!?」「赤司さん……いつの間に……」「抜け駆けは死刑!」「異議なし!」「花宮も俺たちと同じ独り身だと思ってたのに……」「優等生は恋愛もスマートなんだな」「胸か! やっぱり男は胸なのか!」……いや、ちょっと好き勝手過ぎやしないか。

 驚愕の色を宿らせた目で古橋が私を振り返った。口を開くよりも先に何度も大きく首を左右に振る。私の鬼気迫った否定に気圧されたのか、古橋は静かにこくりと頷いた。

 廊下を一気に喧噪の震源地に変えてみせた本人は泰然と踵を返し、教室に入ろうとする。私の横を通り過ぎる間際、古橋にも聞こえないような――私にしか聞こえないような声音で彼は言った。


「最近女子からの告白が増えて面倒だったんだよ。これで矛先は一気におまえに向くだろうな。――ふはっ。さっそくマネージャーとして、よろしく」


 これ見よがしに私の肩を叩いて――そのせいで廊下はまた騒がしさを増して――花宮は一人悠々と教室に入っていった。呆然とその背中を見送るしかない私に、古橋がゆっくりと語り掛ける。


「……これからよろしく」


 花宮が叩いた方とは逆側の肩を慰めるように叩いて、彼は自分の教室へ向けて歩いていった。

 取り残されてしまった私は悄然と立ち竦むしかなかったが、ふいに廊下で悲嘆に暮れる女子たちの中に友人の姿があることに気付き、一気に血の気が引いた。彼女はおぞましいほど綺麗な笑顔で親指を下に向け、口パクではっきりと「うらぎりもの」と告げてきた。

 いまの私には、どうか弁解の余地が残されていますようにと祈るしかなかった。







花宮クレープ発言時の古橋くん「おまえら無言で一緒にクレープ食いに行くの? それなんて罰ゲーム?」



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