「イグニスさん、判子お願いします」
プロメポリス市街にある国家救命消防局の本部。
大事以外はだいたい詰めているだけの隊員たちは、その声に知らず揃って顔をあげた。唯一、名を呼ばれたイグニスだけが「あぁ」と、開け放たれたドアを生真面目にノックしてから声をかけてきた相手に近寄っていく。
「わざわざ届けてくれたのか。ありがとう」
「いえ、お礼を言われるようなことじゃ。いまはこちらもてんやわんやなので、自分で動いた方が郵便より効率的というだけなんですよ」
「そういう裏事情は黙っておいてくれ」
苦笑するイグニスに、少年も「すみません」と笑い返す。
「じゃあ、今日は本当に仕事だけか」
「ガロの顔も見れたらと思っていたんですけど」少年は隊員たちが詰めている部屋をぐるりと見回してから、やや寂し気に口角を持ち上げた。「いないみたいですね。休みですか?」
「あいつは訓練だ」
「それは仕方ない」
少年の持参した書類について二人が言葉を交わしていると、ちょうど先程口の端にあがったガロと、特別監察実習生として国家救命消防局に出向しているリオが詰所に戻ってきた。二人はバーニングレスキューとしてより精進すべく、訓練に赴いていたのである。
見慣れない輩がいる、と片眉を斜めにするリオに対し、ガロはぱっと顔を明るくした。少年に向かって気安く片手をあげる。
「! 来てたのか」
「ガロ!」
イグニスとの会話を一時中断し、と呼ばれた少年も顔色を明るくしてガロへ振り返った。しかし、彼の隣にいるリオを目にした途端、その笑みがぎこちなくこわばる。
「…………」
何を言うでもなく口を曖昧に開けたまま、はリオを数秒見つめた。
なにか用か、とリオが問うまえに、ガロはいきいきとに話しかけてしまった。それにより、リオは彼の視線の真意を問い質すタイミングを失う。
「あぁ、はリオと会うの初めてだよな! こいつはリオ・フォーティア。バーニングレスキューの新人で、俺の後輩だ!」
「……新人なのは認めるが、ガロの後輩になった覚えはない」
「なにをぅ!?」
二人のやり取りを眺めていたは、さび付いた歯車が油を差されたことでまた動き出すように、こわばっていた笑みを徐々に自然なものにさせていった。
「……ぼくは・。ガロの……腐れ縁みたいなものです」
「そこは幼馴染って言えよ!?」
ガロは若干物寂しそうな顔になって、リオからへと向き直った。は完全に熱を取り戻した表情で、「そうともいうね」とくすくす笑った。
「ぼくは市役所で働いている身で。いまは書類をイグニスさんに届けに来たところなんです」
「というわけで、そろそろをこちらに返してほしい」
ガロとリオが戻ってきたころから蚊帳の外にされていたイグニスがむっつりと口を挟んできた。
「仕事中だ。若者らしい交流は後でやれ」
「えー! ちょっとぐらいいいじゃないすか」
「ダメだ。そうこうしているうちに、この書類が必要な出動要請がかかったらどうするつもりだ?」
「うぐ」
ぺしぺし、と紙面を叩いてみせたイグニスに、ガロが口惜しそうに引き下がる。
自治共和国プロメポリスは先の一件の爪痕が未だ色濃く残っている。バーニッシュであった者たちの避難や受け入れも多少進んできたとはいえ、街として回復しきったわけでもないし、人間同士の間に残る軋轢などは尚更だ。バーニッシュを差別する風潮は依然根強い。もう『バーニッシュ』なんて存在はいないとしても。
「……じゃ、あと握手だけ! ほれリオ、。友好の握手握手!」
ぐい、とガロは二人の右手を引っ張り、半ばむりやり繋げ合わせた。
「「────────」」
握手を交わした二人の表情が凍り付く。
リオは思わずといった様子で目を瞠り、は一度は熱を取り戻した表情を再び失った。
とはいえそれは一瞬のことで、二人の手を繋げ合わせた元凶こと間近にいたガロにも、傍から見守っていたイグニスにも、両者の心情は汲み取りきれなかった。
すぐに離れた二人の手は、お互い逃げるように持ち主の下へ戻っていった。
先に動いたのはだった。息を止めたまま、身を翻し、イグニスへ向き直る。
「……ああ、思い出した。イグニスさん、ここの書類なんですが」
仕事の話に戻った二人の横を通り、ガロとリオは詰所の一角へ腰を下ろした。
呆然と片手を見つめたままのリオへ、ガロは不思議そうに問いかける。
「リオ? 手に怪我でもしたか?」
「……ガロ」
「うん?」
「彼は……は本当に生きているのか?」
「はあ?」
突拍子もない問いかけに、ガロは露骨に『理解できない』と言いたげな顔になった。
リオは依然真剣な眼差しで、顔をあげた。視線の先にはイグニスと話し込むがいる。
「あそこまで冷え切った人間の手を、僕は知らない」
「……あの、なんでしょうか」
プロメポリス、その一角。
事件以前のような活気を再び取り戻しつつある街角ですれ違った相手を引き止めてしまったのは、ほとんど無意識だった。自分の手がしっかりと握りこんだ相手の指先に“普通だ”とリオは思う。
普通だ。熱がある。冷たく、ない。
先日の記憶は自分の気のせいだったのかと疑ってしまいそうになるぐらい。
そう思うのを寸前でやめられたのは、リオに掴まれた直後から相手の指先がぐんぐんと冷えていったから。
「敬語はやめてくれ」
彼の熱を少しでも引き止めたくて、リオはいっそう強く握りこんだ。
「ガロの幼馴染なんだろう。僕ともそう年が離れていないはずだ」
なのに、熱はますます引いていく。逃げていく。
どうして、と足元がぐらつきそうになる。
いくな。いくな。────逝くな。
温かいままで、いてくれ。
灰にならないで。地に戻らないで。死なないで。
「……痛い。離して」
言ってすぐ、はリオの手をむりやり振り払った。
正面からリオへ、はっきりとした負の感情を突きつける。
憎悪と怨恨が底まで染みた、虚のような視線だ。
「……きみがどういう人なのかは、だいたいガロから聞かされてる。バーニッシュが悪人ばかりでないことも、きみが司政官の一件を挫かせた立役者だってことも、知っている、けど」絞り出すような声。「……それでも、ぼくは、バーニッシュが嫌いだ」
だから、とはリオから逃げるように一歩後ずさった。
「────だから。もうぼくに近寄らないでくれ」
真っ当な人間になれたなんて、はなから思っちゃいなかったけれど。
……その言葉に、思いの外自分の内面を深く抉られたとリオが気付いたときには、はとっくに姿を消していた。
「はバーニッシュ火災で家族を亡くしてんだ」
リオが詰所でについて尋ねてみると、ガロは意外にもあっさりと教えてくれた。
「……そういうの、軽々しく口にしていいものなのか」
「あいつ自身、べつに隠してねえからな。むしろ『へたに隠す方が気にしてるっぽい』って、大っぴらにしてるタイプだぜ」
ただまあ、とガロはソファーの背もたれに身体のほとんどを預けた。
「……バーニッシュが嫌い、か」
プロメアはこの惑星から退去した。従って、その叫びの受信機たりえていたバーニッシュという存在も、もういない。かつてはマッドバーニッシュの首領であったリオも、いまではすっかりただの人間だ。
それでも、人々の認識の中にバーニッシュは残っている。決して癒えない火傷として。
「……僕のことも、バーニッシュの件も、理解はしているようだった」
「頭じゃねえとこが納得しきれねえってか」
「だろうな」
リオの同意に、ガロはのっそりと顔を動かし、怪訝そうな目を向ける。
「……だろうな、っておまえ他人事みてえに」
「僕の問題じゃない。……僕が何を言ったところで解決する問題じゃないというべきか」
リオは腕を組み直した。
「の拒絶に思うところがないといえば嘘になるが、彼のそれが間違っているとも思わない。だから、僕は
いつになるかは分からなくても。
いまは、あの指先に熱を灯せる日がくると信じるしかないのだから。