一年前






 寮長の座を奪い取り、モストロ・ラウンジの経営を軌道に乗せるまでは艱難辛苦そのもので、いまでは思い返そうとすらしたくない。アズール・アーシェングロットの人生において、もっとも激動の日々であったと彼は断言する。……その分、やり甲斐を感じていなかったといえば嘘になるけれど。

 とかく、忙しない毎日だった。気を抜けばアズールにすら牙を剥くウツボたちが満足するよう娯楽えさを与え続け、同時進行で自分が邁進するための材料をかき集める。尋常な人間であれば三歩と持たず息絶えるような千里の道のりを、しかしアズールは達成した。それはひとえに彼の努力の賜物であった。

 ……けれどアズール自身はそう思わない。

 折に触れて蘇る一言がある。
 その言葉に背を押されて、手を引かれて。いまもこうして胸を張っている。












 モストロ・ラウンジ、プレオープン初日。

 店を開ける約一時間前──今後の段取りを考えるだけで頭が痛くなるようなタイミングに、事件は起こった。


「……なんですか、これ」


 キッチンに散乱する、什器──の成れの果て。

 人為的に破壊されたとしか思えない破片の群れを、慌ててかき集める従業員たち。その手際の悪さにも、このタイミングで起こされた問題にも、アズールは目眩を禁じ得なかった。

 壊されたのが皿の一つ二つならいざ知らず、フォークやナイフの一本一本に至るまで、すべての食器が完膚なきまでに折られていた。修繕の魔法をかけるにしても、数が多すぎる。開店を目前に控えたいまは、従業員たちとの最後の打ち合わせすら惜しみたい手間だというのに。これでは、総出で魔法をかけても間に合うかどうか。


(……やってくれる)


 憎悪に歪みそうになる口元を、手で覆って隠した。
 自分に敵意を持つ存在の多くをアズールは把握していた。彼らがこのモストロ・ラウンジをおもしろく思わないだろうことも含めて。

 直接アズールへ攻撃するのではなく、アズールが成功させたい希望を挫く。自分への報復としてはこれ以上ないぐらいだと褒めてさえやりたい気分だった。

 これでは開店なんて、とてもじゃないが───


「──まだ、大丈夫だ」


 すっ、とアズールの横を抜けていく影があった。


「何とかしよう……いや、する」

「……え〜? マジ? 店の家具どころか、今日使う皿も銀食器も全部死んでんよ?」

「片っ端からやればいいだけだ。逆に考える必要がなくて助かる」


 フロイドの端的な指摘に返ったのは、どう聞いても強がりだったが、しかし彼は本気のようだった。


「フロイドとジェイドなら家具とか、デカいのは任せていいよな。客に見える範囲の修繕頼むわ。俺よりおまえらのが店の全景把握してるだろ」


 深呼吸に似た細長い息を吐いて、アズールを振り返る。


オーナー、、、、。今日はプレオープンだから出すメニューは一律フルコース、でしたね」


 普段は同級生として振る舞っている彼が、ややぎこちない敬語で自分に確認した。
 その事実に、横っ面を張られたような思いになる。

 ……そうだ。呆然としている場合じゃない。
 間に合う間に合わないではなく、間に合わせるのだ。この店の主人は他ならぬ自分なのだから。


「えぇ。何か手が?」


 アズールは冷静を装って問い返した。
 魔法で修繕するにせよ、壊すより直す方が難しいのは自明の理。特に小さいものほど誤魔化しもきかない。これほどの数を一人で引き受けるつもりならば、無策ではとても叶うまい。


「とりあえず銀食器と前菜の皿から直していきます。あとはスープ、魚料理、肉料理と順番に。……それから」


 彼はアズールから視線を滑らせ、フロイド、その隣のジェイド、さらに奥の従業員たちを見遣った。


「使う皿から用意……してみせる。だからタイミングとの勝負になる。客が料理を必要とする瞬間を見極めて指示をくれ」


 フルコースは、ただ出せばいいというものではない。
 客が一品を食べ終え、かつ過不足ないタイミングで出来上がった料理を提供する必要がある。ただ美味なだけでは二流に格付けされてしまうのだ。

 水を打ったように静まり返ったそこで、えー、と声を上げたのはフロイドだった。


「なにそれ、超ムズくない? 客の食べる速度見張りつつ、うまいメシ作って、しかもスズキくんにまで指示出すの?」

「ふふ、考えただけで卒倒しそうですね」


 にこやかに微笑んだジェイドが相方に追従する。
 威圧的な二人に、う、と彼が怖じたのが目に見えて分かった。


「──でもさぁ」


 フロイドの口角が凶暴的に吊り上がる。


「難易度高すぎて逆に燃えてきた。でしょ、ジェイド」

「えぇ、フロイド。一瞬の油断が死に至る……昔を思い出しますね」


 いや失敗しても死にはしねえから、とツッコミを入れられる勇者はいなかった。どころか全員が安堵していた。この双子に火が点いたのであれば、どんな無茶も容易く覆ってしまうような気がして。


「オーナー」


 彼はまたアズールを呼んだ。


「俺たちはアンタの手足です。指示を」


 ……とんでもない。
 勝手に動いて、勝手に本体を鼓舞してくる。そんな最高の手足は自分にはついていなかった。

 ……ついていなかったから、欲しかった。
 それが、いまはこうして得られている。


「ジェイド、フロイド」


 慣れた舌触りの音から口に出した。それは、ある種の自己暗示だったのかもしれない。


「アドニス、イージアン、ヴェニット、ヴォルテール、エコー、オータム、カイロ、クラウド、コーラル、サイアン、シャレイ、スマルト、ティモール、ナイル、パルマ、フィルン、ドナウ、ロンサール」


 そして。最初に足を踏み出した彼の名を。


「──。僕を疑うな、何があろうと信じ抜け。その先の成功を確約してやる」












 目が回るような忙しさで駆け抜けたプレオープン初日は、波乱の幕開けからあっという間に終わりを告げた。

 アズール指揮下、かつジェイドとフロイドの臨機応変なフォローありきとはいえ、従業員が一丸となって取り組んだ故の成果といってよかった。開店直前の事件以外はこれといった問題もなく、それぞれがそれぞれに支え合い、結果的に大成功を迎えたのである。


「っあ゛ー……さすがに疲れた……」


 最後の客の片付けを終えて、綺麗になった机に彼は疲労困憊の様子で倒れ込んだ。

 普段のアズールならやめろと怒鳴りつけているところだったが、今日ばかりはお目溢ししてやるのもやぶさかではなかった。なにせ、彼の一歩がなければどうなっていたかも分からない。


「……あなた、何か欲しいものは?」

「欲しいものぉ? いまは水、絶対水。喉渇いたー」

「…………」


 アズールが魔法で水の入ったコップをキッチンから取り寄せてやると、彼は待ち構えていたように飛びついた。一息に飲み干して、若者らしくない呻きをあげる。


「ありがと! いやー蘇るわー」

「重畳、喉は潤いましたか。では改めて、欲しいものを言いなさい」

「? だから水。で、いまもらったからもういいよ」


 キョトンと首を傾げた彼を、アズールは「は?」と声に出して見下げた。


「……本日の成功は、認めたくはありませんが、あなたのおかげといっていい部分が二割ほどあります」

「二割かよ。褒めるならもうちょい盛れよ」

「あなたが馬鹿を言い出さなければ、あのときフロイドやジェイドの機嫌はどう転んでもおかしくはなかった」


 やる気が削がれた、もうやめる──彼らがそんなことを言い出していたら、本当にどうなっていたことか。アズールは考えたくもなかった。


「って言われても……」


 彼は眉尻を下げ、アズールを見上げた。空になったコップのふちをくわえて、からころと上下させる。


「パッと思いつかないから、今度でもいい?」

「いますぐ言いなさい。さもなくば無効にします」

「ケチかよ。……じゃあもう無効でいいわ」


 休憩代わりのぐうたらは終わったのか、よいしょ、と彼は立ち上がった。アズールを置いて、皿洗いでてんやわんやしている水場を手伝うためキッチンに戻ろうとする。その後ろ姿があまりに潔かったものだから、アズールの方が驚いてしまった。


「は!? 正気ですか!?」

「いや正気ですかって……」


 彼は心底呆れた顔で振り返った。


「俺、何か欲しくてやったわけじゃねえし」

「じゃあ何で、あなたはあのとき……」

「おまえが頑張ってたから」

「───は」


 思いもよらない返しに、アズールは素でポカンとしてしまった。完璧な位置で整えてあった帽子がズルリ、と落ちてくる。


「手段は色々どうかと思ったけどさ。でもアズール、このラウンジ開くためにめちゃくちゃ頑張ってただろ。頑張った奴に報われてほしいって思うのは、まあ、そんなにおかしくはないだろ? 俺以外の奴らもそう思ってたから、今日はうまくいったんじゃねえかな」


 たぶん、と自信なさげに付け足して。


「……だから……そうだな。なぁ、アズール。俺たちの働きは、おまえのお気に召したか?」

「……わざわざ言わせるつもりですか。趣味の悪い」


 嫌味で煙に巻こうとしたのに、彼がじっと答えを待つものだから、アズールは仕方なく折れてやった。


「……最高でしたよ! 文句のつけようがないぐらいね! これで満足ですか!?」

「あぁ、満足した」


 よかったよ、と彼は嬉しそうに笑った。

 そして一歩踏み出して──バタン、と倒れた。

 極度の疲労、くわえて彼の場合、限界まで魔法を酷使していたのもまずかった。担ぎ込まれた保健室で二日間の安静を命じられ、彼はその後のプレオープンではまったくの役立たずとなった。

 なんて締まらない男だと、アズールは心の底から呆れ──そんな存在の言葉を、うっかり大事に抱え込んでしまった自分にはもっと呆れた。


『おまえが頑張ってたから』


 その言葉に背を押されて、手を引かれて。
 いまこうして胸を張っている。

 自分の努力を何があろうと彼だけは認めてくれると、すっかり信じ込んでしまったものだから。





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