二歩進んで、三歩下がる





 思わず噴き出した私の向かいで、モクバが目を丸くした。え、何その反応、と彼は言う。

 即座に切り替えそうとしたが、海馬家愛用のお高い紅茶が気管に入った。数十秒ほどごほごほと噎せてから、力ない動きでモクバと向かい合う。メイドさんが室内にいなくてよかった。冷たい目で見られるところだった。


「……ごめん、もう一回言ってくれる? ちょっとひどい幻聴がしたみたい」

「だから、兄サマとって付き合ってるんだろって」

「ごっほごほげふごほぶほ」

「……女子力が死んだ噎せ方だと思うぜい」


 椅子ごと一歩引かれた。
 が、仕方ないことだと思う。そんなこと言われたら誰だって噎せる。

 紅茶を一気に呷って、呼吸を落ち着かせる。それでもまだ呼吸は多少荒かったが、脳内で物事を処理する余裕が生まれた。


「……あの、どうしてそうなった?」

「だって、兄サマが家に連れてくる女ってくらいだぜ? 仕事の最中にやって来ても追い返さずに、こうやって茶を振る舞うなんて、他の奴らじゃ考えられない」

「連れてくるというか呼び出されているというか……」


 結果として海馬邸に来ているのだから、どちらでも一緒なのかもしれないけど。でも自分から積極的に来ているような言い方はやっぱり違和感があって、言いよどみながら視線を落とした。
 小難しい顔つきで、茶菓子のクッキーをぽりぽり齧る。フランスからわざわざ取り寄せているという貴族の食べ物は、庶民代表たる私によってゆっくりと食われていく。うまい。

 海馬瀬人というのは大変多忙なヒトで、滅多に学校にもやってこない。彼が制服を着ている姿を見られたらその日一日は幸運である、などというジンクスまで女子の間ではあるほどだ。つまりはそれだけまともなエンカウントが少ないということなのだけど、どういうわけか定期的に海馬くんに呼び出される私にとっては、そこまで遭遇率は低くない。

 別段特別な縁があったわけではない。クラスで席が隣で、たまに彼が登校してきたときに話をするぐらいだ。その話だって、ゲームやカードのものばかりで、大して面白いものとは思えない。ごくごく一般的な知り合いのそれでしかないと考えるのだけど、モクバや私の友達といった周囲からすると、どうにも奇異に映るようだ。

 まず、海馬くんはヒトとそれほど話をしない。コミュ障とかそういうのではなく、居丈高な態度が相手を威圧するらしい。それはもう海馬くんが悪いとしか言いようがないし、城之内や本田が海馬くんに突っかかっている姿をよく見かける原因は、恐らく海馬くん本人にあるのだろう。ともかく彼がマトモな会話を交わすということは大層な事件であるらしい。

 私だって九割九部上から目線の言葉しかかけられていない。会話が成立しているからまあいいか、ぐらいに捉えているだけだ。気にしていないというと嘘になるけど、腹が立つというほどでもない。

 そういうわけで時々話をしている内に連絡先を交換した。これといったきっかけを覚えていないから、たぶん話の流れだったのだろう。それ以来、一週間に一回ぐらいの頻度で海馬邸に呼び出されている。しかしだからといって何をするわけでもない。だいたいは帰り際になってようやく部屋から出てきた海馬くんと軽い挨拶と世間話をして、それで終わりだ。ひどいときは呼び出した張本人と顔を合わせることもない。個人的に一番酷かったのは、海馬くんが執事さん達に私が来ることを言い忘れていて、屋敷の外で木枯らしに吹かれていたときだ。そのときはいつまでも私が来ない(というか入れなかった)ことに業を煮やした海馬くんから怒りの電話がかかってくるまで、門外で体育座りをしていた。

 最初の方は応接間で一人ケータイを弄っていたり、読書に勤しんでいたのだが、いつしかモクバが相手をしてくれるようになってからは、彼との会話を楽しむようになっていた。交わした言葉のトータルとしては、恐らく海馬くんよりモクバの方が多いに違いない。


「でも、だって呼ばれたら来てるじゃないか。嫌なら断ればいいのに」

「だって断る理由もないもん。私、バイトもやってないし」

「……あれ。童実野高校ってバイト禁止じゃなかったか?」

「黙ってやってる子、結構いるよ。誰とは言わないけど」


 私的には学業にひどい支障を来しているわけじゃなし、無理にバイトを禁止させる方が酷だと思うのだけど。高校生なんて体力が有り余る時期なのだから、小銭稼ぎぐらい許してやればいいのに。

 へー、とモクバは感心したように言ってから、


「で、ほんとに付き合ってないのか?」

「……話、逸らせたと思ったのに」


 悔しさそのままに、クッキーを数枚一気に掴んで口に放り込む。ばりばりと咀嚼していると、気分は怪獣だ。


「私と海馬くんは友達――というか知り合い、かな。形容としてはクラスメートの方が相応しいかもしれない」

「うーん……兄サマがただの知り合いにここまでするとは思えないんだけど……」

「アレだよアレ。ほら」と私は人差し指を立てて笑った。「海馬くん、トモダチ少ないから」





 瞬間、後頭部に辞書の角が刺さった。



 あぁあ”あぁ”あああ”ッ! と椅子から転がり落ちて床で悶絶する私。
 ふん、と私を見下ろして腕組みをする海馬くんが視界の隅に映る。その手には分厚い辞書があった。おまえが犯人か!


「あ。兄サマ、仕事終わったの?」

「あぁ。こいつの相手、ご苦労だったな。モクバ」

「別にいいよ、これぐらい。面白いしさ」


 第一次痛撃が去った後もじわじわと居座る第二次に頭を押さえていると、ぴょんとモクバがソファーから降りた。「じゃ、オレ宿題やってくるね」軽く手のひらを振って応接間から出ていくモクバ、に手を振り返す。

 自然、残されるのは私と海馬くんだけになるわけで。


「……貴様、いつまで床に寝そべっているつもりだ?」

「いや君のせいなんだけど」


 未だ攻撃を受けた箇所は痛いが、立ち上がれないほどでもなくなった。掛け声と共に立ち上がると、海馬くんはモクバが座っていたソファーに腰を下ろして長い足を組んだ。

 珍しいことに、彼直々に相手をしてくれるらしい。


「もう仕事いいの?」

「終わった、とさっき言った筈だが」

「うん。ならいいや」


 椅子に座り直して、またクッキーに手を伸ばす。どうせ食えるのなら食っておかないと勿体ないという庶民根性でぱりぱり食べていく私を咎めることもなく、海馬くんはじっとこちらを眺めていた。


「――貴様は」

「うん?」

「貴様はオレの隣にいるものだ」

「いま向かいだけどね」

「…………」

「え。何その沈黙」


 あれ、意味取り違えた?
 首を傾げると、海馬くんは小さく溜め息をついた。馬鹿が、と小声の罵倒も聞こえた気がする。気がするけど、食いついたところで彼相手に口喧嘩の勝算はないのでクッキーと一緒に飲み込んだ。

 海馬くんは腕を組み直し、目を閉じた。そのまま口を開く。


「貴様は凡庸で、取り立てて面白味のない奴だ」

「何で私唐突にディスられてんの?」

「――だが、オレ個人は見所がある、と、思っている」


 突然のデレに顎が外れるかと思うほど驚いた。
 咄嗟に言葉が出てこなくて、ああ、とかうう、とかよく分からない鳴き声の後にどうにか「それはどうも」と頭を下げた。

 しばらく、微妙な沈黙が室内を満たした。
 海馬くんが私の相手をしてくれるだけでも珍しいのに、こんなデレまで見せてくれるなんてもはや驚天動地である。明日は槍の雨が降るだろう。

 静寂が辛くて、何でもいいから音が欲しくなった。食い意地が張っていると思われてもいいからクッキー食べよう、と思ったらもうなかった。私の馬鹿! 食べ過ぎだ、私の馬鹿!

 海馬くんが私の顔面にゲームソフトを投げつけたのは、その直後だった。


「ふぎゃ」

「新作だ。デバッグしろ」


 乙女の顔面を狙うとか、やっぱりこいつと付き合うとかない。絶対ない。

 海馬くん語によるとデバッグは試遊の意味だ。うきうきしながら、応接間のテレビ前に膝をつく。最新ハード機にソフトを入れ、テレビを点ける。少し距離を取って、コントローラーを片手に床へ直接腰を下ろす。

 と、私の背中に密着するようにして海馬くんまで床に座った。


「……海馬くん」

「何だ」

「ここまでくっつく意味は何ですか」

「寒い」

「……そうですか」


 暖房入れろよ――のだの字まで口に出しかけたが、言ったら最後首を絞められるに決まっているので思いとどまった。溜め息一つで諦めて、改めてコントローラーを握る。

 海馬くんと付き合うとかマジでガチでホントないけど、でも、別に彼のことは嫌いじゃない。
 たぶんだけど――面と向かって交際を申し込まれたら断れないだろうな、ってぐらいには。



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