必要な音は一つだけ
「────ぁ」
しまった、と思ったときには遅かった。
遊作と向かい合っていた液晶が垂れ幕でも下ろされたかのように暗い青色に染まって、その上からコードがつらつらと塗られていった。指はまだ止まっているから、自分が打ったものではない。映像でも再生されていくかのような調子で流れていくコードたちから現実味を感じるのは難しかった。
遊作が再び手を動かすよりもはやく、コードの流れが止まる。
いままでプログラム言語としての英文ばかりだったのに、紡がれた言葉は日本語だった。
≪良い腕だけど、脇が甘い。こんな中学生みたいな手際でいいのかい≫
ここまで鮮やかにやられたら劣等感すら抱けない。真っ青な画面を見つめた遊作は、半ばヤケになって打ち返した。相手が返答を期待しているかどうかも分からないまま。
≪中学生だ≫
とん、とん、とん。
コンマとドットが交互に表示されては何も生まずに消えていく。あれほど流麗なコードを打ってきたあの相手は、返答に悩んでいるようだ。こちらから仕掛けたハッキングには指で弾くみたいな調子でやり返してきたというのに、嘘か真かも定からぬ遊作の一言には短くない逡巡を抱いたらしい。
遊作は何度か、もうネットカフェを去ろうかと考えた。どうせ自分の機器ではないから、ハッキングが奏功しなかったことを嘆きはすれど、残念には思わない。このネカフェは会員制だから、もうここを利用はできないが、さして気にすることでもない。数度踵を床にぶつけ、音を鳴らし、その都度腰を上げかけた。はたして、遊作は椅子に座ったまま、相手が何を言ってくるのかを待っている。
≪藤木遊作≫
画面に紡がれた四文字に、遊作は顔から血の気が引いていくのを切に感じた。
このパソコンは遊作のものではない。ハッキングを仕掛ける為だけにこのネカフェへ足を運んだのだから、当然個人情報に繋がりかねないページにアクセスなどもしていない。どうして自分の身元が割られたのか────遊作が思考したのは、ものの数秒だった。
このネカフェは会員制。今の時代、会員情報をデジタルで管理していないなど有り得ない。遊作がこの個室に入ったことも、管理システムに入力されているだろう。画面の向こうの相手は、それを漁ったのだ。パソコンの住所を割り、ネカフェだと分かるや否や、管理システムからいまこのパソコンを使っている人物を特定した。逡巡に似た沈黙は、その作業時間だったのだ。
突然荒くなった胸の動悸を鎮めようと遊作が苦悶している間にも、文字は紡がれていく。
≪きみさえよければ、私のところへ来るといい≫
カタカタ、と言葉は滑らかに続いた。
≪ハッキングを教えてやる≫
プツン、と液晶の照明が落ちた。青から黒へと移り変わった画面は、不出来な鏡と化して、呆然とする遊作の顔を映し出していた。
遊作から仕掛けたハッキングなので、相手の住所は分かっている。住所不明にハッキングなんて出来っこない。相手もそれを承知で『来るといい』なんて宣ったのだろう。だからといって、素直に応じられるかといえば、絶対にノーだ。
ハッキングに失敗したあの日からしばらく、遊作は緊張に張り詰めた日々を送った。個人情報を割られた以上、警戒するのが当然だ。けれど、遊作の緊迫感に反して毎日は穏やかに過ぎ去り、それは彼に決意する猶予も与えた。
遊作はいま、とあるヤクザの事務所を正面から眺めている。
昼間だというのにどんよりと薄暗い路地に、遊作以外の人気はない。
一口にヤクザの事務所といっても、ここは表向き普通の───なにをもって普通とするのかはともかく───自営業ということになっている。実態はほとんどペーパーカンパニーなわけだが、極道がどうやって生計を立てているかなど遊作にはどうでもよかった。彼の目的は、この内部に在るとされるパソコン、ひいてはその持ち主だ。
相手は『来るといい』と言い、『ハッキングを教えてやる』とも言った。その尻馬に乗るつもりではないけれど、こちらが一方的に個人情報を掴まれているのも気分が悪い。せめて相手の顔だけでも覚えられたら、一勝二敗ぐらいの成績には持ち込めるのではないかと思ったのだ。
遊作はパーカーのフードを目深に被り直し、細く息を吐いた。足を踏み出す。目の前のドアノブを回す。鍵は掛かっておらず、擦り硝子のハマったドアは自ら客を招くようにすんなりと開いた。
からんからん、と喫茶店のようなベルが鳴った。その音で、室内の人物が振り返る。
────こんなに綺麗な生き物がいるのか、というのが第一印象。
初雪を溶かして流したかのような髪は長く、それに縁どられた白磁の肌はさながら作り物。ぱっちりと開いた瞼の奥に嵌められた青い宝石は、きっと世界に二つだけ。シンプルなワンピースからすらりと伸びた手足は均等に長く、人体がもっとも美しく見えるバランスを保っている。飾り気のない服装なのにこうも輝いて見えるのは、素体が際立った異彩を放っているからなのだろう。
室内の人間は、ソファーに座った彼女一人だけ。ペーパーカンパニーといえど相応の人数が詰めているだろうと予見していた遊作は、かなり意表を突かれた。
ソファーが二つ向かい合う形で置かれ、その間では長方形のテーブルが清潔なクロスを掛けられていた。美女はそのソファーの一つに座っている。恐らく応接用の家具なのだろう。東側の壁に凭れるように並べられた棚は三つ。事務所の内装はそれだけだ。壁紙や絨毯はなく、打ちっぱなしのコンクリートがやけに寒々しく映る。
その中心でじっと値定めるように遊作を見つめていた美女が口を開いた。
「本当に中学生こどもなんだ」
呆れたのか、感嘆したのか、判然としない声色だった。
ただ、その一言で相手の正体は知れた。
「……おまえが、『タンカー』?」
「あぁ、私だよ。他にも『採掘屋』とか『ドクター』とか『スコップ』とか色々呼び名はあるけどね」
美女はテーブルの上にあるなにかを閉じた。遊作が首を伸ばして確認すると、ノートパソコンだった。USBケーブルで小箱のようなものに接続されているが、それの正体までは一見しただけでは掴めなかった。けれどなんとなく、外付けハードディスクのように思えた。
「いつまで玄関で立ってるつもり?」
重力を感じさせない美しい動きで立ち上がった彼女は、優雅な仕草でもって、遊作に向かい側へ座るよう促した。
遊作が知っている『タンカー』は、いってしまえばデータ専門のサルベージ屋だ。その正体だと名乗る美女は他にも呼び名があるようなことを言っていたが、そこまでは知らない。
あるときはどんなセキュリティプログラムだろうと易々と解体し、中のデータを取り出す。またあるときは膨大なネットの海に潜水ダイブし、一掴みの消失されたはずのデータを拾ってくる。またあるときは、大企業や著名人の秘密を抜き取り────と、ネットに流れている噂はそんな感じ。サルベージ屋という看板を掲げてはいるが、データ探しの達人といった方がもっと相応しいだろうと遊作は思う。どんな虎口にも躊躇なく侵入し、無傷で財宝と共に帰還する様はトレジャーハンターにも似ていた。
自然、『タンカー』の下には様々な情報が集う。『タンカー』を利用する依頼者にも、『タンカー』の被害に遭った者にも等しく情報は宿っているからだ。いまでは生きたブラックボックスとまで謳われる『タンカー』のサーバーを突き止め、ハッキングを仕掛け、返り討ちに遭ったのが一週間前のこと。
「それで」
蒼眼アイスブルーの美女───『タンカー』は遊作に紅茶を淹れたあと、自分のカップに口をつけて、そう言った。
「きみは何を知りたかったんだい?」
もうこちらが名乗るまでもなく、自分がハッキングを仕掛けた相手───藤木遊作だと看破されているらしい。反射的に逡巡するも、すぐに『タンカー』相手に隠し立ては無為だと悟った。
「……八年前の事件を追っている。六人の子どもが拉致、監禁された事件だ」
「そんな事件あったかな。それに、八年前なんて昔の話を言われてもね」
『タンカー』は遊作から顔を反らし、素知らぬ風に言った。本当に知らないのか、知らないふりをしているだけなのかは、見ただけでは分からない。
「大々的に報道などはされていない。その理由も分からない。だが、その事件が起こったことだけは事実だ」
「どうして事実と言い切れる?」
「俺が被害者の一人だからだ」
『タンカー』が伏していた目をあげて、遊作をその蒼玉に映した。
彼女が事件を知っているかどうかは、この際あまり関係がない。『タンカー』の情報保管庫に、事件に関するデータがあるかどうかが重要なのだ。だから遊作はハッキングを仕掛けたのだ。
「事件は、決して小さいものではなかった。俺が被害者であることを除いても、六人もの子どもが拉致監禁された事件がまったく報道されないなんて、おかしいと思う。はっきり言って異常だ。なんらかの圧力が掛かったとしか思えない」
「……その事件は、なにが目的だったんだい? 子どもを六人も集めてやることなんて、だいたい決まってるとは思うけれど」
些か下衆な響きを帯びた『タンカー』の問いに、遊作は怖じることなく答えた。
「分からない、、、、、」
いままで余裕一辺倒だった『タンカー』の調子に、初めて空白が生まれた。
「────は?」
「おまえの言うように、性犯罪なり何なり起こっていたなら、俺はハッキングなんて仕向けなかっただろう。それなら攻撃の対象におまえは含まれなかったはずだからな」
「なら、きみは……きみ達は、監禁場所で何をしていたと?」
「ひたすらデュエルを。勝てば食料と水が与えられた。負ければ何も与えられなかった。少なくとも俺の知る限り、あそこで生き残る方法はデュエルで勝つことだけだった。そして、それが俺の知る事件の内容だ」
微かに息を呑んだ『タンカー』はおもむろに瞬きをすると、洒落たサンダルの踵でコンクリートの床を三回蹴った。
「……なるほど」彼女は皮肉気に笑った。「それは確かになにも分からない、、、、、、、、。だからきみは私のサーバーにハッキングを仕掛けてきたわけだ。結果はともかくね」
「分かってもらえたならいい」
なら、事件のデータを、
遊作が言葉を続けるよりも、『タンカー』がサンダルの踵とコンクリートで大きな音を立てる方が早かった。最前から数えて二度目のそれは、音は大きかったが、蹴ったのは一回だけだった。
「あぁ、理解はした。したとも。だが、それだけだ。きみに協力する義理はないし、ましてやサーバーを見せるなんてとんでもない。私の仕事は守秘義務と平等性で成り立っている。たかだか一時の同情で、いままでの積み重ねすべてを崩すと思うか?」
鋭く睨みつけられて、さっきの大きな音は威嚇だったのだと遊作は気付いた。
「思わない」
遊作は怖じずにかぶりを振った。この美しいヒトに威嚇されたというのはそれなりにショックだったが、それぐらいで足を止められるのなら、彼がこんなところに出向くことはなかっただろう。
「思わないから、『タンカー』に会いに来た。教えてくれるんだろう、ハッキング」
『タンカー』は横っ面を張られたように瞠目した。乗り出していた身を引いて、自分が熱くなっていたのにやっと気付いたみたいに目を伏せると、それを恥じるように頭を掻いた。どこかバツが悪そうな表情だった。ぐっと背筋を伸ばし、遊作から天井へと焦点を変える。
「……その呼び名はやめてほしいね。あまり好きじゃないんだよ。いや、その呼び名に限ったことじゃないんだが」
「なら、なんて呼べばいい」
「別にいちいち名前なんて、」
そこまで言いかけて、彼女は閉口してしまった。ややあって、ポツリと呟く。
「────いや、そうだな。きみは、きみなら、うん、権利があるか」
自分を納得させるような独り言の後、彼女は視線を遊作に戻した。
「私の本名を教えてあげよう。それから、きみの好きなように考えなさい」
どこか自嘲にも似た笑みを浮かべていた。
「私の名は、鴻上だ」