ただ底に響く






 遊作が「そうか」と応じると、彼女は拍子抜けしたように片眉を下げた。怪訝そうにも見える表情だったが、気分を害したようでもない。言問いたげな顔をしたわりには、けれど静かに溜め息をついただけだった。


「……まぁ、私のことをきみがどう思おうが、きみの勝手か」


 遊作に、というより、まるで自分に言い聞かせるような。

 『タンカー』はテーブルの上の小箱から一息にUSBケーブルを引き抜くと、勢いそのまま、投げつけてきた。

 遊作は反射的に小箱を受け止める。速度や威力はないに等しかったにせよ、何分いきなりのことだったから、それなりに驚いた。


「何をする」

「今日の課題」


 鴻上───彼女───『タンカー』は立ち上がった。棚の一つに近寄っていくと、資料らしいファイルを幾つも抜き取っていく。遊作からは彼女の背中しか見えなくなってしまった。


「習いたいんだろう、ハッキング。じゃあそれをやりなさい」

「それ、ったって」

「はいこれ、ヒント」


 引き抜いてきたファイルを、遊作の前にどさどさと積んでいかれる。

 テーブルはあっという間に『タンカー』が持ってきた資料と元からあったノートパソコンでいっぱいになってしまった。もはやつつけるほどの隅もない。

 唖然とするばかりの遊作へ、彼女は言葉で畳み掛かける。ピ、と指差されたのは、先程受け取ってしまった金属質の小箱だ。


「その記憶容量メモリは、一週間前に死んだ女の遺品。両親が『娘が殺された理由を知りたい』と藁にも縋る思いで私のところへ持ち込んできた。何重にもロックがかかっていたけど、大方私が解除したからあとはパスワードを打ち込むだけ」

「……殺された?」


 遊作が看過できない物騒な単語を復唱する。

 『タンカー』は答えず、ふあ、と生欠伸を漏らした。

 遊作は複雑な思いで小箱を見つめた。たしかにハッキングは教わりたい。教わりたいけれど、こんなことをやらされに来たわけじゃない。ましてやパスワードを打ち込むだけなんて、ハッキングでも何でもないではないか。


「制限時間は二時間だ」


 『タンカー』はまた遊作の対面へと戻る。ソファーで仰向けに転がり、照明避けのつもりなのか、目元に片腕を置いた。そうして、遊作の方を見もせずに口を開く。


「はじめ」


 拒否権はなかった。










 パスワードは半角英数字で最大四文字。予想よりは少ない文字数だったが、かといって候補が絞られたわけでもない。現時点では情報があまりにも少なすぎる。

 『タンカー』の寄越したファイルは、殺人とは関連の薄いものの方が多かった。植物図鑑めいた内容のものから、コントラフリーローディング効果に関する論文集まで勢揃い。知識欲旺盛な子どもをあやすようなラインナップに些か皮肉めいたものを感じなくもなかったが、自分のため、あるいは小箱を持ち込んだという両親のため、放り出すこともできなかった。

 ざっとではあるが、遊作はすべての『ヒント』に目を通した。その時点で制限時間は一時間を切っていた。

 『ヒント』の中で、女の死について記されていたのは一冊だけだ。

 死因は焼死。他に目立つ外傷はなく、司法解剖の結果では毒の類も検出されていない。とてもよく乾いた空気の夜に、家が燃えた。発火は内側からで、寝室にいた女も焼け死んだ。

 家の鍵はしっかりと掛けられており、家内には多くの観葉植物が育成されていた。キッチンはIH式で、また、マッチやライターといった火種らしきものは見当たらなかったが、火を育てる薪には事欠かなかっただろう。冷え性か寒がりだったのか、設定温度が三五度と高めのエアコン以外に目を引くものもなく、現在警察は自殺、他殺の両面から捜査を進めている。

 両親の証言も、その一冊に同梱されていた。女は一人暮らしで、遠くに住んでいた両親は事なきを得ていた。


『良い子でした。自慢の子でした。学校だって主席で卒業して、仕事だってずっと就きたかったものに就いて、すべてがやっとこれからってときです。何の不安もなかった。最後に会ったときも、笑顔で別れました。自殺なんて有り得ません。娘は誰かに殺されたんです。きっとろくでもない奴に殺されたんです────』


 遊作は『ヒント』の山にファイルを戻し、改めてノートパソコンを引き寄せた。USBケーブルによって小箱と接続された画面には、相変わらずパスワードを求める表示がされている。

 ちらり、と『タンカー』に視線を遣る。三十分ほど前から規則正しい寝息が聞こえていた。いったいどういうつもりなのかと胸中だけで眠る彼女に問いかけるつもりだったのに、


「────はたして、本当にそうだろうか」


 そんな言葉が、ふいに形のいい唇から発された。遊作は知らず目を剥いた。

 『タンカー』は目元を隠す片腕を退けようとしなかった。天井を仰ぎ見る姿勢のまま、淡々と舌を動かしていく。


「両親の話はすべて両親のフィルターを通してのものだ。それが間違いとは言わない。だが、真実とも思えない。人間の語る言葉は、本当のことだけでは構成されていないから。ダミーコードと同じだ。本物だけど、意味のないもの」


 ぶらぶらと、サンダルを履いた足がだらしなく揺れている。その気怠さすらも美しさに変えてしまえるのは、彼女が生まれつき有する気品ゆえか。


「何の不安もなかった。嘘じゃない。きっと両親には本当に不安なんてなかったさ」

「……本人は違ったと言いたいのか?」

「そんな知ったかぶったことは口が裂けても言わない。私は他人だからね」


 ただ、と『タンカー』は続ける。


「実の親子だから、と。たったそれだけの理由で相手と分かり合えると信じているのは実に愚かしいことだ。一人一人、見えているものは違う。当然、世界をどう感じているかも違って当然だ」

「まるで自殺だと言っているように聞こえる」

「そう言っている」

「…………これは俺への課題なんじゃないのか?」


 目を瞬かせる遊作に対し、『タンカー』は鼻で笑った。


「きみに与えた課題はパスワードの解明だ。名探偵になれと言った覚えはないよ」


 それは……そうだが。だったら、はじめからそう言ってくれたらいいのに。わざわざ『ヒント』を与えて、制限時間まで設ける意味はあったのだろうか。


「死に方は分かった?」

「……探偵をやらせる気はなかったんじゃないのか」

「ないよ。ただ、きみの意見を聞きたいだけだ。どんな見込みがあるのかを知りたいから」


 遊作はやや躊躇いがちに口を開く。


「……自殺だというのなら、時限発火装置のようなものを置いて……」

「ああ、もういい。分からないなら素直に分からないと言いなさい」


 『ヒント』にエアコン以外に目を引くものはないとあっただろう、と『タンカー』はうんざりしたように足を折り曲げした。

 見当がついていなかったのは事実だが、そうもはっきり却下されると鼻につく。


「まあ、発想自体は悪くない。だけど、装置なんて大それたものは必要ない。花とエアコンだ」

「…………は?」


 遊作は自分がなにか聞き間違えたのかと問い返したが、『タンカー』ははっきりと同じ言葉を繰り返した。


「花とエアコンだよ」

「……そんなもので人が死ぬのか?」

「ゴジアオイという花は周囲の温度が三五度以上になると自然発火する性質がある。エアコンの設定温度は三五度。これ以上の説明が必要か?」


 聞き覚え───いや、見覚えのある単語だった。遊作はハッとして、『ヒント』の中から植物に関連していたものを引き寄せた。

 ゴジアオイ。自殺する植物。花言葉は『私は明日死ぬだろう』。

 白い花弁が開いた写真を載ったページに目を落としながら、遊作は呆然と呟いていた。


「そんな────回りくどく?」


 自殺したい、と思うのはまだ理解できる。両親にすら何も言わず死を選ぶ、というのは、このご時世、珍しいことでもない。

 だが、ゴジアオイを生育するのは非常に困難だ。温度はエアコンで解決できても、日差しや肥料、湿度の問題がある。たかだか死ぬためだけに、花一つに、労力をかけすぎだ。


「声に出せずとも、伝えたかったことがあったんじゃないか」


 『タンカー』は片腕を腹の上に置いた。露になった麗しい目元は、静かに天井を見つめていた。まるでそこに何かの映像でも見えているかのような目をしていた。


「誰に何を言いたかったのかは知らない。だが少なくとも、それは届かなかったはずだ。届いていたら、その小箱は私の下へ来なかったはずだから」


 自殺する者が、ここまで回りくどい方法を取ってまで、誰かに伝えたかったこと。

 半角英数字、最大四文字。

 ……遊作はキーボードを叩いた。指先は勝手に震えていた。

 そんなはずはないと思った。
 そうであってほしくないと我が事のように願った。

 だって、これでは、あまりにも────


「────────」


 こみ上げるやるせなさごと、息を呑んだ。

 h、e、l、p。
 たったそれだけの文字で、鍵が開く。

 ぶうん、と画面に小箱の中身が次々開示されていった。


「………一つ、質問がある。このパスワードは本当に持ち主が設定したものか?」


 日々の家計簿、日記というには少なすぎる生きた文字列、旅行先で撮ったらしい笑顔の写真。この記憶容量メモリには文字通り、日常のすべてが詰まっていた。きっと持ち主は息をするように、この道具へ自分という存在を吹き込んでいったはずだ。これはそういうものだった。

 そんなものに、『help』なんてパスワードを設定するだろうか。


「……さぁ、どうだろう」


 『タンカー』は遊作の方を見なかった。


「もし、そうだったとして。それはきみに関係あるのか?」


 咄嗟に遊作は答えられなかった。

 たとえば自分が持ち主の身内だったなら、「ある」と言い切れただろう。しかし現実に自分は身内でもなければ、持ち主の友人でもなく、どころか持ち主の顔すら知らないのだ。


「この世のすべてに意味なんかない」


 彼女は暗い響きを込めて言った。


「生きる理由も、死ぬ理由も、同じことだよ。意味も価値も、ことごとくは後付けだ」





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