「最小存続可能個体数、という言葉を知ってる?」
『タンカー』の問いかけが唐突なのは、いまに始まったことではない。そもそも遊作を引き入れた発端からしてロクな経緯ではないのだ。
どうせまた何かの気まぐれが始まったのだろう。『本日の課題』と称して与えられたプログラムと対峙する遊作は、パソコンの画面から顔を上げずに返答した。
「単語と、おおまかな概要ぐらいは」
「重畳。なら説明は省かせてもらうよ」
向かいのソファーに座る『タンカー』は、満足そうな口調のわりに淡々とした表情を崩さなかった。彼女の場合は『仕事』だが、遊作と同じようにキーボードを叩き続ける白魚の指先は決して滞らない。その美しい外見に接続されているだけで、実は口と手はそれぞれ別の生き物なのだと言われたらうっかり信じ込んでしまいそうだ。
「人間の最小存続可能個体数は知ってる?」
「……たしか、三ニ」
彼女は「及第点」と頷いた、ように見えた。首の振りだったのか、ただ足を組み替えた余韻だったのかは定かではない。
「知識としてはそれでいい。正確には『分からない』と言うべきだけど。さて、この理由は分かる?」
「……人間は、簡単に死ぬから」
「満点だ」
今度こそ彼女ははっきりと頷いた。
「人間は驚くほどあっさりと死ぬ。これは人間に限らず、肉を持つ生物である以上仕方ない。諦めるしかない事案だろう。不死と、それに伴う退屈が解決されない限りは」
では、と彼女は抑揚のない声を続ける。
「肉を持たない生物なら、どうだろう。最小存続可能個体数は、ゼロでない限り常に満たされるんじゃないかな」
「……それはプラナリアのような、自らの分裂が可能である生物と仮定しての話か?」
「いや、『一』で存続する生命の話だよ」
かたかた、かたかた。
どちらのものとも知れぬキーボードを叩く音だけが室内に響く。時折混じる、コンコン、という音は『タンカー』のサンダルの踵がコンクリートで踊るせいだった。
「たった一匹で種を存続させる。そういうものは、もしかしたら完全な存在なのかな。人間なんかより、よっぽどさ」
遊作は逡巡し、言葉を返す。
「俺は、違うと思う」
「根拠は?」
「……ない。だからこれは、ただの私見だ」
「いいよ。聞こう」
どうぞ、と促す代わりに『タンカー』はチラリと遊作を一瞥した。
その冷ややかながらも麗しい視線に一瞥されただけで、知らず遊作の背筋は伸びる。つう、とうなじをあの爪先で撫でられた気がした。
彼女のお気に召さなければ、そのままつむじからむしゃむしゃと食べられるかもしれない。そんな馬鹿げた考えまで頭を過ぎった。
それはそれでいいだろう、と遊作は開き直り、キーボードを叩く手を止めた。依然こちらを顧みぬ彼女へ目を向ける。
「一匹では、完全に成り得ないはずだ。他に比較対象がいなければ『完全』という自覚が望めない。完全というのは、欠陥が確認できてこそ生まれる概念だと俺は思う」
一匹で種が存続するのなら、増やす意味がない。意味がないということは、能力の欠如に繋がる。きっとその生物は繁殖もままならない。孤独を孤独と知らぬまま、ずっと一匹でいるしかない。
たとえそれが『完全』と称されるものだったとしても、たった一匹では何もできない。やる意味がないからだ。その一匹はひたすら在ればいいだけだから、そこが始まりで終わり。
先がない。後ろもない。ただの虚無だ。
「……そう」
気付けば、キーボードの音が途絶えていた。遊作だけでなく『タンカー』の指先も止まっていた。
コン、コン。彼女のサンダルだけが断続的にステップを刻んでいる。言葉ではなく行動でタイムを要求されているようで、ローディング中の機械さながらだな、と遊作は思った。
「新鮮な知見だ。続けて」
ひらり、と『タンカー』の手がはためく。
遊作は返答に窮した。
「……それで終わりだ。続きはない」
「なんだ、そうなの?」
この日初めて『タンカー』はパソコンの画面から顔を上げた。心底つまらなさそうに、あるいは残念そうに彼女は眉間にしわを寄せる。
「いまのはなかなか良かったのに。キミ、哲学者としての才能があるんじゃない?」
「……そう言われても」
哲学者なんて目指そうとも思わないし。
コン、と『タンカー』が足を組み替えた音が軽やかに響いた。
「それだけで生きていけたらよかったのにね」