男女が同じ屋根の下で共寝をしたからといって、何か起こるとは限らない。友人たちからすると「それは明らかにおまえらがおかしい」らしいけれど、しかし実際何も起こらないのだから、は持論を覆す気はない。それも一回や二回どころではなく、数年以上そうなのだから。
ごろん、と寝返りを打ってみる。すやすやと眠っている降谷の顔が視界に入り、若干の苛立ちと優越感が胸中に湧いた。
二人で酒を飲んだ後は、大体こうなる。降谷が千鳥足のを引きずって彼女のアパートに帰り、何故か彼もそこで寝る。しかも同じ布団で。
どうせ忙しいのだろうから帰ればいいのに、と思う傍ら、此処ぐらいでしか仕事から離れられないのかな、とも思う。もしそうなのだとしたら、いま起こすのは可哀想な気がして、は神妙に降谷の寝顔を眺め続ける。
端正な降谷の顔に手を伸ばしかけて、はっとして手を引いた。いくら気心の知れた仲でも、猫みたいに勝手に撫でるのは失礼というものだろう。寝ぼけているのか、とは苦虫を噛んだ思いになった。
降谷を起こさないよう静かに上半身を起こす。自然己の現状を見下ろす形になり、飲んだ格好のまま寝たのか、と気付いて舌打ちしたくなった。皺だらけになったシャツにかける手間を思うと鬱になりそうだったので、意図的に思考から追い出した。
家賃の安いアパートに求めているのは最低限の防音性、トイレと風呂が別になっていること――それぐらい。大家に「あんまり重いもの持ち込むと床抜けるよ」と忠告されてしまえば、ベッドを諦めて畳に布団を敷くのも溜め息一つでやってのけよう。とはいえ、布団から足がはみ出ている降谷を見ると、似合わないなあと思わず笑いたくもなるというものだ。
ベルトの緩められたジーパンを脱いで、タンスからスラックスを取り出して履く。少し窮屈さが消えた。皺だらけになったシャツもジーパンと一緒に洗濯用の籠に突っ込んで、部屋着用のTシャツを身に着ける。
借り受けているアパートの1DKはさほど広くない。一人暮らしには十分な面積ではあるが、こそこそと作業をするには不向きだ。寝室兼私室を兼ねている部屋に戻ると、寝ぼけ眼の降谷が上半身を起こしていた。当然のことながら、彼も昨日飲んだ格好のままだった。
「おはよう」
声をかけると、錆びた機械のような動きで降谷がこちらを向いた。
「……いたのか。」
「いるよ、そりゃ。私の家だし」
「いないかと思った。起きたら、いないから」
「……おまえ、寝ぼけてんな?」
どことなくぼんやりした表情と言動の降谷に、したり顔では言う。
たぶん、と降谷は頷いた。眠気に負けそうなのか、かくかくと船を漕いでいた。
は何故か布団からはみ出て部屋の隅に転がっていた枕を拾って、軽く彼にぶん投げた。寝ぼけている降谷が避ける筈もなく、顔面にクリーンヒットした。
「っぶ」
「まだ寝てれば。アンタがそんなにぼーっとしてるってことは、今日も仕事があるわけじゃないんでしょ。昨日付き合わせたお詫びに朝ごはんぐらい作ってあげるし。できたら呼んであげるわ」
言うだけ言って、は踵を返した。キッチンに入って、冷蔵庫を確認する。作り置きしていたほうれん草のお浸しと漬物にくわえて、卵焼きと焼き魚を作ることぐらいはできそうだ。おかずはそれらにするとして、味噌汁と白米を付け合わせてやれば、立派な和食の完成である。決定。
いくらに対して遠慮のない降谷でも、せっかく作ってやったモノに文句をつけるほど失礼ではない。そのことは、長年の付き合いで理解している。そもそも飯を食わせてやるのも、これが初めてのことでもないのだ。
調理に手を付け始めて数分後、脇に置いていたスマホが軽やかな着信音を奏で始めた。二度寝を決め込んだだろう降谷を起こされてはたまらない、とは素早く電話に応じる。調理する手は休めないまま。
「はい、もしもし?」
『もしもし、ちゃん? 久しぶり! 元気ー?』
「……おば、いや有希子さん?」
思わず“おばさん”と言いそうになってしまったが、もし口走ったが最後山ほどの見合い写真が嫌がらせ目的で家に届けられるのは分かっている。慌てて訂正したのが効いたのか、相手の声音に不機嫌の色が混じることはなかった。
『いまちょっと日本に戻ってきてるのよ。久しぶりにちゃんの顔が見たいなーっと思って電話したんだけど、いま家にいる?』
「ああ、なら――――いえ、すみません。いまはいるんですけど、すぐ出かける予定がありまして」
嘘だ。出かける予定などない。ただ、いま家に来られては有希子に降谷との関係を根掘り葉掘り聞かれることは間違いない。痛くもない腹を探られて、朝から気力を削がれるのは勘弁してほしかった。湧き出た罪悪感は味噌と一緒に溶かしてしまおうと考える。
『あら。ならダメね、残念。やっぱり刑事さんは忙しいのね』
叔母――といっても、有希子の年齢はとそう大差ない。二人で歩いていると、姉妹に間違われるぐらいだ。若作りというより、実年齢も精神も着飾るセンスも、その全てが老いていないのだ。年の差があるとはいえ、彼女もの母と同じく子持ちの筈なのだが。
子、という言葉で思い出す。行方不明の従弟の存在を。
「そういえば、最近新一くんから連絡とかありました?」
『え、あ、う、うん、そうね。たまーにあるときもあるわ、うん』
「え!? 結構前に聞いたときはまだ行方不明だって……み、見つかったんですか、新一くん!?」
思わず大きな声が出て、割ろうとしていた卵をうっかり取り落としそうになってしまった。何度も瞬きをしてしまう。目前に有希子がいるわけでもないのに。
『え、えぇ。なんかね、新ちゃん、面倒な事件を追いかけてあちこち走り回ってて、うっかり連絡取るの忘れてたみたい。まったく人騒がせよねー』
「いや、へぇ、そうなんですか……」知らず声には安堵が混じった。「……いえ、無事ならいいんです。そうですか、生きてますか……」
よかった、と漏れた声に偽りはない。
長らく行方不明となっていた従弟の存在は、ずっとに不安の種を撒き続けていた。何もできないことは歯がゆく、無力感に押しつぶされそうになったときもある。けれど、母親の有希子が無事だというのなら、嘘ではないのだろう。ようやく胸につっかえていた柵が無くなりそうだった。
『そっか、ちゃんも心配してくれていたものね……。もっと早く言えばよかったわ。ごめんね』
「いえ、私は何もしていませんし……。新一くんが無事なら何よりです。よかった、本当に……」
改めて胸を撫で下ろした、そのときだ。