落胆
やけに月が綺麗な夜だった。だけど雲が多くて、月は隠れたり現れたりと忙しない。
──何かあるかな、と思った。
こういうときの私の予感は、悲しいかな、よく当たる。それも嫌な方向に。
夕食を終え、神父が私を連れて教会へ向かったとき、予感は確信に変わった。
「……楽しそうですね。言峰神父」
教会の長椅子に腰を下ろし、私はそう声をかけた。主の像を見上げていた神父が、わずかに眉を上げて振り向く。
「……何を、突然」
「貴方と同じ屋根の下に何年居たと思っているんですか。感情の機微ぐらい、解ります」
ふむ、と神父は顎に手を当てた。ややあって、彼はいつもの不敵な笑みを浮かべる。
「おまえに悟られるようでは、私もまだまだ修練が足らんな」
「ご冗談を。これ以上修練を積むなど、主にでも取って代わるおつもりですか?」
堪えきれなかった溜め息が溢れた。
この養父に比べれば、間桐慎二など可愛く見える、と気障な同級生を思い出した。連想して、遠坂凛の姿が脳裏を過る。
……そういえば、この神父が楽しそうなときはいつも彼女が絡んでいたような。
確信は現実に変わる。
ぎい、と教会の扉が開かれた。
「──こと、みね?」
「……衛宮くん」
──そうきたか。
遠坂凛に連れられ、衛宮士郎が教会に足を踏み入れる。
咄嗟に堪えた溜め息が毒に変わったらしい。頭痛がしてきた。
遠坂凛と神父が揃って、衛宮士郎に聖杯戦争の説明をしている間、私はしばらく片隅でぽつんと座っていた。
だけれども、この説明を耳にすればするほど頭痛が増してきたので、私は一時撤退することにした。なるべく音を立てずに、しかし迅速に外へ出る。
──不審者がいた。
「む。……修道女ですか」
黄色の雨合羽を不自然なほど膨らませ、忠犬のように教会の前で佇立している。
声からして、女性。
「こんばんは。衛宮くんか、凛のお知り合いですか?」
「……それに近いものです」
受け答えの雰囲気からして、私に敵意はないらしい。強張っていた肩の力を抜き、彼女に一歩近付いた。
「中でお待ちになられては?」
「いえ。私は見張りですから」
──見張り、とは。
これまた変わったお知り合いである。
会話を交わしてしまった手前、これではいさよなら、というのも後味が悪い。中へ戻るのも嫌で、私は彼女の前を横切る。
「では、お茶でも持ってきましょう」
「いや、私は──」
「今日は寒い。女性の体が冷えたら、一大事です」
にこやかに微笑めば、彼女は開きかけた口を閉じる。善意を断ることには、誰しも罪悪感を抱くものだ。それが見せかけのものであろうと、同じこと。
そうして台所に駆け込んで、お茶を六つ用意する。茶葉が日本茶のそれしかなかったので、仕方なくそれで妥協した。雨合羽の彼女は西洋人の顔立ちだったので、紅茶でもあればよかったのだが、と思う。
六つのお茶を盆に載せて、教会の前に駆け戻る。
いの一番に、雨合羽の少女に手渡した。
「どうぞ。日本茶しかなくて、ごめんなさい」
「……いえ。お心遣い、感謝します」
少女は綺麗な微笑を浮かべて、湯飲みを受け取ってくれた。
白魚のような光沢を放つ彼女の指先が、湯飲みを口元に運ぶ。たったそれだけの動作に、凛然とした色気が感じられて、一瞬見惚れてしまった。
すぐに我に返る。いけないいけない、まだ渡す相手はいるのだ。
「また回収に来ますね。これぐらいしかできませんが、どうぞごゆっくり」
「ありがとうございます、シスター」
少女に見送られるようにして、私は教会の裏手に回る。一応周囲の人気を確認してから、教会の屋根を見上げた。
傍目からは、私しかいないように見えているだろう。
「──そこにいる、赤い人」
ざわり、と。
確かに空気が揺れた。
応答はない。
仕方なく、私はまた口を開く。
「今日は冷えます。よければ、日本茶など如何ですか?」
「──教会には似合わぬ和風だな」
幻想が形を成すように、それは突然私の目前に姿を現した。
──否、彼は屋根の上から飛び降りただけだ。私はそれを最初から視認していた。
──捨てた筈の、魔術師の名残だ。
赤い外套の、褐色の男性。仏頂面の中に垣間見えるのは、私への警戒。
「日本の教会ですから。多少は和風にもなろうというものですよ。それでもご希望なら、英語ぐらい話しますが」
「いや結構。ただの感想だよ」
ありがたく頂こう、と赤い彼は湯飲みを一つ掴み、一気に飲み干した。かん、と空の湯飲みを盆に返却される音が夜に響く。
──私に残留する魔術師としての残滓を、これほど忌々しく思ったことはない。
赤い彼が微笑しながら口を開く。
「心遣いには感謝するが、女性が見知らぬ男にそう声をかけるものではない。それも、こんな深夜に」
「……お節介なところは、変わらないんですね」
「……何?」
「いえ──奇異な縁だと思っただけのことです」
赤い彼は刃を彷彿とさせる眼光で、私を見下ろした。それを真っ向から受け止めてから、あえて私から目を反らす。
「……凛を、よろしくお願いします」
軽く頭を下げて、すぐに表に戻る。
彼の返事は聞こえない。聞くつもりもなかった。
教会の前では、丁度遠坂凛と衛宮士郎が外に出てきたところだった。神父と二言三言交わしている彼らに、水を差すように声をかける。
「凛。衛宮くん」
にこりと微笑んで、盆を見せる。
「帰られるなら、お茶を飲んでからでも遅くはないでしょう。もうこんなに遅い時間なんですから」
──明日は衛宮くんに問い詰められるかな。そう思うと気が滅入り、さっきの赤い彼を思い出すと、さらに気落ちした。