交渉
──ここ、日本だよね?
私はしばらく呆然と立ち尽くしていた。
現代日本たる冬木の郊外に、こんな場所が隠されていたなんて。恐らく、地図にも表記されていないだろう。地理学者が知れば気絶してしまうに違いない。
魔術で秘匿された、雪の城。
アインツベルンの本拠地を前に、私は内なる帰宅欲と懸命に戦っていた。めっさ帰りたい。
溜め息一つ。
「……仕方ない」
行きますか。
城に一歩近付いた途端に、悪寒が足先から脳天まで突き抜けた。考えるより先に後転。一拍空けて、私の鼻先を鈍器のような剣がかする。
まさに危機一髪。剣圧で髪の毛が数本切られた。
「──あれ。シロウかリンだと思って急いだのに、知らないヒトだ」
無垢で、残酷な声。
そちらに顔を向ければ、雪の姫が巨躯の肩に座っていた。
佇立しているだけで、命乞いしそうになる威圧感を放つサーヴァント。
バーサーカー。
そのマスター。
イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。
笑いそうになる膝を叱咤して、イリヤスフィールを正面から見据える。
「聖杯戦争の監督役補佐、言峰です。アインツベルンに勧告をしに参りました」
「えー。勧告とか要らなーい」
「儀礼的なものですので、ご容赦を」
軽く頭を垂れてから、私は事務的な口調を意識する。
つ、と垂れそうになった冷や汗をさりげなく拭う。一瞬でも息を抜けば、私の首が飛ぶのは間違いなかった。アインツベルンのマスターは、いつだって冷酷だ。
「先日の戦闘の件です。今回のみ見逃すが、以後あれほど目立つ場所での戦闘は控えるように、と」
「仕方ないじゃない。シロウとリンを逃がさないためには、あのときしかなかったんだもの」
「はい。ですので、少しばかり注意して頂ければ幸いです」
後始末が面倒になってきた養父が理由付けにガス漏れとしか言わなくなってきたから。
いい加減ガス会社が可哀想なのである。
それだけです、と私はまた頭を下げる。
「では、私はこれで失礼します」
「──待ってよ」
少女の声は釘となり、私の足を地面に縫い止める。
急くな。落ち着いて対応すれば、五体満足で帰れる。鼻で深呼吸してから、私はイリヤスフィールに視線を遣った。
「……何でしょう」
「貴女、あの魔力生産庫の一族でしょう」
さっき、足の魔術刻印が見えたわ。見覚えがあるものだったから、思い出してたの。そう言って、イリヤスフィールは眩しいまでの笑顔を浮かべた。
――嗚呼。
―――なんて。
――――××しい。
「……とっくに魔術は捨てました。これは取れないから、仕方なく持っているだけです。私以外の血族は、全員死にましたし」
「そうなの? 勿体無いのね」イリヤスフィールは口元を歪ませる。「──半永久的な魔力の生産を可能とした魔術だったよね。でも自分たちはその魔力を使えないから、他人に譲渡するしかない」
「……お詳しいことで」
「うん。とっても詳しいよ。──貴女を所有していれば、魔術師やサーヴァントは魔力切れに一生悩むことはないってこともね」
魔力切れに悩むことがない。それは魔術師にとって、使いきれないほどの大金に当選したに等しい。
私が死なない限り、魔力が生産され続けるのだから。
ねえ、とイリヤスフィールは手を差し出した。
「私の城に来ない? リンやマキリに取られるぐらいなら、私が飼ってあげる」
「……貴女が聖杯を取ったときなら、喜んで」
イリヤスフィールは目をぱちぱちさせて、花みたいな笑顔で頷いた。
「──うんっ、解った。じゃあ約束よ、コトミネ」
「えぇ。それでは」
イリヤスフィールに背を向けて、森を抜ける。しばらくして公道に出た途端、足の力が急に抜けた。思わず地面に座り込んでしまう。
──糸が、切れたか。
ふう、と息を吐く。
「……とんでもない約束をしてしまった」
誰でもいいからアインツベルンにだけは聖杯を渡さないでくれ、と思いながら立ち上がる。
……これからは学校以外でも絶対タイツ履こう。