懇願
例えば、の話をしよう。
有り得ないIFの──馬鹿が夢見る幻想の話を。
例えば、私が魔術師の家系に生まれなくて。
例えば、私がこんな性格じゃなかったら。
例えば、あの大火災が発生しなかったら。
そこに、いまの『私』との間に生まれる齟齬は如何程のものになるのか。
「──なんて、ね」
緩くかぶりを振って、私は現実に立ち戻る。
未だ完全とはいかない学校の修復具合を点検しながら、私は廊下を進む。
まったく、英霊たちは手加減を知らないから困る。それが英霊たる所以なのだろうけど。
ふと、生徒会室前を通りがかった。中から見知ったヒトの怒声が聞こえてきて、思わず立ち止まってしまう。
少しだけ悩んで、戸を引いた。
万が一の可能性だが、聖杯戦争に一般人が巻き込まれていては、後々困る。私が。
「──柳洞くん。どうかしましたか?」
──正解は、近からずとも遠からず。
柳洞一成が怒声を差し向けていた相手は、聖杯戦争の関係者──もとい、私の幼馴染み。
「む、言峰か」
「あら、」
──遠坂凛。
「……珍しい組み合わせですね。写メって拡散してもいいですか」
「「やめろ」」
どちらも私の言葉を理解しているとは言い難い人種だが、何となく危機感を感じたらしい。揃って制止されては仕方なく、私は携帯電話を鞄にしまう。
……しかし、絵になる二人だこと。どちらもヒケを取らない美形だから、生徒会室が絵画めいて見える。
「丁度よかった。、衛宮くん見てない? もう教室にいなかったから、此処で待ってるのよ」
「生徒会室を待ち合わせ場所にしないでくれ。……そも、『待ってる』ではなく『待ち伏せてる』の間違いだろう」
「……このとおり、五月蝿い小姑がいてね」
バチィ、と二人の間で視線の火花が散った。
……なんて気まずい空気だ。
「……しかし、凛。衛宮くんを捕まえるなら、場所が違うと思いますが」
「え? どういうこと?」
「端的に申しますと」私は生徒会室の扉を指す。「下校されましたよ、彼」
「──な」
何ですってぇええ──という彼女の声は、生徒会室どころか学校中に響いたに違いない。
……一つ疑問なのだが。
そのとき、どうして柳洞一成が勝ち誇った顔をしたのだろう。おまえは何もしていないぞ。
生徒会室から走り去る際、遠坂凛はごく自然に私を道連れにした。そんな彼女の行動に慣れてしまった己に、心中で溜め息が漏れる。
衛宮士郎の家に向かう道すがら、彼女は有り得ない有り得ないと連呼する。
「昨日、あれだけ色々あったんだから、今後の方針を決める為に会うでしょ。普通は!」
「はあ」
「もう! 有り得ないったらないわ! 何で! 普通に! 下校してるの!」
「……凛。一ついい?」
「ん、なに?」
「昨日、あれだけ色々あったって……どういうこと?」
あんなにかしましく動いていた遠坂凛の口が、びしりと凍りついた。
一歩踏み出し、彼女の隣に並ぶ。
「……凛?」
「だ──大丈夫よ。別に疚しいことはないから。何も壊してないし」
壊すこと前提に話している彼女に、何か申しておくべきかと思ったが、やめた。疚しいことはないと言っているのだから、追い討ちをかける必要はあるまい。
溜め息を吐く代わりに、私は言う。
「ならいいのですけど」
──貴女が無茶をしていないなら、それでいい。
遠坂凛が無邪気に笑う。
「大丈夫。が心配するようなことは、何もないから」
──それからまもなく、私たちは衛宮邸に到着する。
衛宮士郎に門前払いされかけた彼女を目の当たりにして、私が必死に腹筋を鍛えるまで、もうすぐだ。
最近は、教会に帰ってもギルに会わないことが増えてきた。
彼は夜遊びが好きだったし、よく街をぶらついてはいたが、ここまで顔を合わせないのは初めてだ。何があっても夕飯までには必ず戻ってきていたのに。
──何かあったのか。
いや、ギルに限ってそれはない。昔、私が誘拐されたときも、誘拐犯たちを笑顔で半殺しにしていた彼だ。
──それでも、何かあったんじゃないのか、という思いは止まらなくて。
いまは聖杯戦争が勃発している。サーヴァントなんてトンデモ人間大集合状態なのだ。万が一という可能性も見過ごせない。
神父に出掛けてくると言付けてから、私は尼僧服のまま教会を飛び出した。
何もないかも知れないけど。彼のことだから、繁華街を遊び歩いているだけかもしれないけど──もし、何かあったなら。
彼がいなくなったら。
「────」
有り得ない。そう思ってはいても、その想像に泣きそうになった。
──ふいに、足が浮いた。
「こんな時間に一人で出歩くもんじゃねえよ、嬢ちゃん」
「──ラン、サー」
青い彼に抱えられるようにして、私は夜を跳ねていた。
ランサーは家屋を足場にして、重力などないかのように人間離れした脚力を見せる。
「どうして、貴方がここに──」
「…………」ランサーは無言で頭を掻いてから、「嬢ちゃん一人だと危ないだろ。ほら、掴まってな」
自分の首に私の腕を巻き付けてから、ランサーはまた夜を闊歩し出した。
──月が綺麗な夜だと知ったのは、そのときだ。
知らず彼に掴まる力が強まった。
「……ランサー。貴方もサーヴァントなんですよね」
「……あぁ」
今まで交わすことのなかった言葉を──心を。
いま話しておかなかったら、永遠にその機会が来ないように思えて。
神妙に、口にする。
「聖杯戦争が終われば──いえ、明日にでもいなくなるかもしれないんですよね」
「……まあ、可能性としちゃあな」
早々消えてたまるか、という意思がひしひしと感じられる口振りに、私はくすりと笑ってしまう。
少しだけ、自嘲混じりに。
「──ランサーと会えて、よかった。私はきっと、貴方のことを忘れない」
ランサーは私と目を合わせて、そっと視線をずらし、前を見据えた。その横顔がどんな英雄よりも凛々しく思えて、うっかり見惚れてしまった。
彼の唇が、小さく動く。
「……クーだ。クー・フーリン」彼は続ける。「俺の真名だ」
「……ランサー?」
「嬢ちゃんになら、教えてもいいかと思ってな」
──サーヴァントにとって真名を教えるということは、己の弱点を晒すことと同等だ。
かのケルトの大英雄にそう思ってもらえたなら、こんな私にも少しは価値があるのだろうか。
少しだけ調子に乗っても、いいだろうか。
「──クー・フーリン。我が儘を言ってもいいですか」
「……あぁ。なんだ?」
ランサー──クー・フーリンの胸に顔を埋める。
いまの顔を見られたくなかった。ひどく無様な顔をしている筈だから。
「──必ず、帰ってきてください。私が貴方を看取る為に」
青い彼は、少しだけ黙った。嫌いじゃない、むしろ好ましい沈黙だった。
あぁ、と彼は言った。
「何があろうと、俺はの所に戻る。約束だ」
──それが気休めだと、彼も私も解っていた。口に出さないだけで、互いに痛感している。
だが、気休めでいい。
気休めだからいい。
策謀と偶然と奇跡で構成される戦場に“絶対”はないのだから。
約束だ、と私たちは気休めを交わす。