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天空闘技場の受付に並ぶ列は長蛇と化していた。その大部分は屈強な男たちで形成されていて、私の他に女は目にできない。つい数分前まで私が最後尾だったのに、いつの間にか見知らぬ、そしてやはり屈強な男が後ろに並んでいた。現代日本では到底有り得ない――古代ローマの闘技場だって、これほどひっきりなしに闘志がやってくることはなかっただろう。じろじろ向けられる好奇の視線を気にしないよう、私はそんな他所事ばかりひたすら考えていた。
私三人分ぐらいの高さの位置にある、壁に掛けられた時計が一周するまでに受付に辿り着くことができた。受付時間中ひっきりなしに殺到する志願者たちに対応するためか、宝くじ売り場のような受付は複数並んでいて、受付嬢の対応も非常に手慣れていた。流れるように「天空闘技場にようこそ」という挨拶を掛けられ、簡易的な履歴書のような紙を渡される。台に固定されているペンを一本拝借して、さっさと書き終えてしまおうと身を乗り出して、
「――う゛」
……忘れてた。私、ハンター文字読めないんだった。
確か日本語――こちらではジャポン語なのだろうか――自体は存在していた筈だから記入はそれで乗り切るとしても、解読ばかりはどうにもならない。恐らく一番上の欄は名前だと思うのだけど、それ以降はさっぱりだ。数秒ぐぬぬと唸ったあと、背後からの「早くしろよ」という重圧に負けて、私は受付嬢に頼ることにした。
「……あの、これってなんて書いてあるんですか?」
受付嬢は何度か目を瞬かせて、キョトンとして言った。
「……上から名前、生年月日、今日の日付、格闘技歴、格闘スタイルです。名前以外は特に必須事項ではありません」
受付嬢の青色の目が「まさかその程度も読めないの?」とばかりに怪訝な色を過らせた。しかし彼女もプロで、愛想笑いは崩れない。そのせいで目だけが笑っていないことになり、余計に怖さが増していた。ごめんなさいこの程度も読めないんです本当にごめんなさい。
しかし名前以外は必須事項でないというのは僥倖だった。焦りと罪悪感と背後からの重圧により、尋常でない乱雑さで名前だけを書き殴る。ペンを元の位置に戻して、用紙を突き返すように手渡すと、受付嬢は一瞬だけ顔を引き攣らせた。だが拒まれることはなく、「それでは中にどうぞ」と闘技場の入り口を手の平で示される。
頭を下げて「ありがとうございました」と投げ捨てるように告げて駆け出そうとする。受付嬢はちらりと私に視線を向けてきた。
「女の子なんて久しぶり。……顔だけは怪我しないようにね」
明らかに仕事用ではない声音で掛けられた言葉に振り返る。しかし受付嬢は既に別の志願者を対応していた。私はごくりと唾を飲み込み、改めて彼女に向けて頭を深々と下げた。そして踵を返し、再び闘技場の入り口へと足を動かした。
中は外観以上にだだっ広く、すり鉢状になっていた。中央部では合計一六ものリングが並んでいて、その上では絶えず誰かが誰かと相対している。それを囲うように設置された観客席には、対決を待つ志願者の他に観光客らしい姿も見られた。闘争と血に酔う人々の熱気で、まるで別世界に来たかのようだ。……実際別世界なのだけど。
思わず階段の手前で呆然としていたら、スタッフらしい黒服の男に「きみも志願者だね?」と声を掛けられてようやく我に返った。振り返りつつ頷く。
「女の子とは珍しい。いまなら引き返しても大丈夫だけど……いいのかい?」
サングラスの奥で瞳が心配げに揺れていた。
女性蔑視ではなく、心を砕いてくれた故の発言だったようだ。
そうと解ると私の肩の力も抜けた。
本心から言えば引き返してしまいたいのだけど、天空闘技場ここ以外に頼りがないのも事実だった。諦念気味に「大丈夫です」と首を縦に振ると、彼は眉尻を下げた。
「……そうか。ならいいんだ。きみは1188番だ。順番が呼ばれるまでテキトーに待っていて」
言葉とは裏腹に残念そうに言って、彼はとぼとぼと去っていった。その背中からは、良いヒトの気配がした。それも要らない気苦労を背負うタイプの。
野蛮人の国だとばかり思っていた天空闘技場は、思いの外普通の良いヒトたちで運営されているのかもしれない。そう思うと、少しだけ呼吸が楽になるような気がした。
階段を下りながら手頃な席を探した。なるべく危ないヒトたちがいない場所がいい。しかしこの天空闘技場に集う人物など大抵危険であるに違いなく、ようやっとこれぞという席を見つけて一息をついたとき。
『1188番、1245番の方。Cのリングへどうぞ』
――こ、このタイミングで呼ばなくても……!
落胆。やり場のない苛立ち。そういったものを体内に抱えたまま、私は階段を下りていった。
Cのリング前で待ち構えていたのは、巨漢だった。横綱を彷彿とさせる体型の男は、私が対戦相手だと認識するとしめたとばかりにニヤリと笑った。
「両者リングへ」
審判の指示でリングに上がる。それだけなのに、さっきよりもずっと喧噪が増したような気がした。
「おい女だ!」
「嬢ちゃん、来る場所間違ってんじゃねえかー!?」
「逃げるならいまだぞ! ギャハハ!」
……実際増していたようだ。他のリングに同性の姿はない。私に向けられた言葉なのは確実だ。
観客席から掛けられた下品な野次に、やれやれと溜め息をつきたくなる。
しかし今は可能な限り集中しておく必要があった。――相手を殺してしまわないために。
大丈夫、イメージは完璧だ。時間だけは受付を待っている間に十分あったんだから。
胸に手を当てて、大きく深呼吸した。
「ここ一階のリングでは入場者のレベルを判断します。制限時間3分以内に自らの力を発揮してください」
審判が簡単な説明を終えて、身軽な動作でリングから降りた。
「それでは―――始めっ!」
開始の合図とほぼ同時に、巨漢は駆け出した。右腕を引いているのは、それで私を殴るつもりなのだろう。鬼気迫る形相に思わずたじろぎそうになる。幸いだったのは、速度スピードはそれほどでもなかったことだ。
及び腰になりそうな自分を胸中で叱り付ける。しっかり目を開いて殴打を見切り、相手の突撃を避け、慣れない足取りで背後に回った。
さあ、ここからだ。
人体に試すのは初めてだから、とびきり手加減して――
「えいっ」
ちょん、と。
巨漢の背中を人差し指で軽く突いた。キーボードでも押すような力加減だった。
しかし、それでも十分過ぎた。巨漢は四トントラックに直撃されたように吹っ飛んだ。地面から足が離れ、風圧で身体の脂肪や皮がおかしな具合に歪み、観客席に背中から激突した――その一連の光景はフィクションめいていて、悪夢としか思えなかった。
闘技場内が一瞬静まり返り、直後にせり上がるような熱狂に湧いた。どよめく場内の注目を一身に浴びながら、私は愕然とするしかない。他のリングで戦っていた者たちまで手を止めて、目を丸くして私を凝視していた。
悄然とする私に、審判が固い面持ちで告げた。
「1188番。きみは50階へ」
「……はい。……すみません、あのヒトは……」
思わず訊ねると、審判は拍子抜けしたように答えてくれた。
「まさか、相手の心配を?」
「……一応。手加減したんですけど、やり過ぎましたから」
「――大丈夫だよ。闘技場の医療部は優秀だ。そうそう死人は出ない」
「……そうですか」
なら、よかった。こんな事故で殺人者になりたくはない。
ホッと息を吐いて、リングから飛び降りる。
……だけど、あれだけ手加減してもこれほどなんて。もう手足を封印するしかないような気がしてきた。息を吹きかけただけでも台風並みの破壊力になる恐れすらある。自分の想像に寒気がした。人死にを出す前に、制御の術を得なくてはならない。
ふらふらとエレベーターに向かう私の背中を、審判がどんな目で見ていたかなど知る由もなかった。