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 150階クラスまで上がるのに、一週間かからなかった。対戦は多くて一日に二回なので、一足飛びで50階まで上がった私だったが、毎日試合をこなしてもなかなか思うように進めず、それなりに時間がかかった。だけど一般的には超常的な速度で上がっていったと思う。

 ようやく与えられた個室に入り、扉を閉める。途端に緊張の糸が切れたのか、どっと疲れが押し寄せてきた。鉛が如く重たく感じる足を引きずるように動かして、どうにかベッド脇に座り込む。はあ、と漏れた息は重かった。



「疲れた……」



 天空闘技場――いや、この世界に訪れてから既に二百時間を超えた。

 夢だという希望は徐々に色褪せてきていて、反比例するように現実であるという絶望が質量を増しつつある。胸中でせめぎ合うそれらを無視し続けていたけど、もう限界だ。

 受け入れよう――これが現実であるということを。

 希望が音を立てて砕け散った。思わず目を閉じ、天井を仰いでしまう。口を開けば情けない声が漏れてしまいそうだった。

 どうしてこうなったのか。それすら分からないけど、私はいま、此処で、生きている。それだけが確かなこと。いつまでも嘆いていたって仕方がないから、せめて現状を受け入れよう。そして前を向こう――私が生きていくために。

 人間は気を抜けば壊れてしまうほど脆い生き物だ。けれど足がある、手もある。モノを考える頭もある。なら、生きているなら進める筈だ。どこに向かうかは分からなくても、進み続ければどこかには辿り着く。どこにも辿り着けなくても、諦めなかった足跡は残る。たとえ途中で力尽きてしまっても、私が生きていた証明になる。



「これから……どうしよう」



 ひとまずの衣食住は確保した。150階クラスの闘士に与えられる個室は高級マンションの一室に相当する。雨風をしのぐ宿としては過不足ない。階が上がるにつれてファイトマネーの桁も数を増しつつあるし、食事や生活雑貨に困ることもなくなった。……最初の三日ほどはほとんどホームレスに近かったけど、それは忘却の海に放り込んでしまおう。嫌な記憶はなるべく早く忘れてしまうに越したことはない。

 自分が選んだこととはいえ、当初は対人戦に非常に苦しんだ。なにせ手加減を間違えれば相手は死んでしまうだろうし、その相手は躊躇なくこちらに殴りかかってくるのだ。害意を持った相手と好んで戦うほど私は血の気が多くなかったし、戦闘狂でもなかった。相対する人物は大抵強そうな男であったことも、女である私の恐怖を煽った一因だろう。だから100階あたりまでは試行錯誤していたものだったが、徐々にではあるけれど、ここ二日ほどは戦い、、というものに慣れつつあった。……慣れたとはいえ、三ミリが五ミリになったぐらいの違いだが。

 このまま、とんとん拍子で階を上げていくのも難しいことではないだろう。200階は天空闘技場の闘士たちの羨望と憧憬を向ける場所。当然、そこに所属する闘士の扱いは、それ以下の者たちとは大きく異なる。だけど、戦闘のレベルが歴然と切り替わるのも、また事実だ。

 これまでとは違い、200階は殺人も許容される。しかも、200階に残留し続ける闘士たちは軒並み熟練した念使いだ。私が今まで相対してきたような猪突猛進な連中ばかりではない。念における戦闘は、ある種戦争に近い幅広さを併せ持っている。



「嫌だよなぁ……」



 そんな危険なところに行くなんて、正気の沙汰ではない。

 私のこの異常なまでのチカラ――恐らく念による副作用だが、はたしてこれは同じ念使いに通用するのだろうか。同時、疑問に思う。私のこれは本当に念なのか。念だったとして、無意識に必要以上の猛威を振るってしまう私は念使いと呼ばれるに相応しいのか。

 結局それらの疑問も、これから考えていくしかないのだけど――とりあえず当座の目標として『200階に行かない』を設定することにした。150階クラスでも試合に参加することでエリート企業の幹部職並に報酬は貰えるし、個室だって申し分ない。現状で満足な私としては、これ以上を求める理由はまったくないのだ。うむ、と己の揺るがない庶民性に一人頷く。主人公なら「どれだけだって上を目指すゼ!」なんて精神性なのかもしれないけど、生憎と私はそうはなれない人間性であった。

 とはいえ、対戦は毎日一つか二つは組まれる。参加してしまえば、否応なく決着がつく。痛いのは嫌だし、今まで同様無傷で勝ちたいけれど、勝てば階が上がってしまう。ならば試合を放棄すればいいのかもしれないが、不参加は敗北と見なされて階が下がってしまう。150階以下に落ちれば、せっかく手に入れた個室も即刻退去しなければならない。それは避けたいことだ。

 結論としては『適度に勝ちつつ、200階に上がる手前で負けて、150階クラスを維持する』しかないだろう。完全週休二日制になったぐらいの心持ちでモチベーションを保ちたい。今まで毎日誰かしらを相手にしていたことを思えば、随分肩の荷が下りた気分だ。

 当面の方針は決定した。以後はこの部屋を拠点としつつ、帰還方法を重視しつつ、チカラの制御方法を探っていこう。



「よし」



 と。一つ頷いて。
 私はシャワーを浴びることにした。











 今日の対戦開始時刻は昼前だった。幸い組まれていた試合は一つだけだったので、いつも通り手加減を心掛けて、なんとか勝利した。相手も今日はリングからころっと落ちただけで済んだので、酷い怪我はしていないと思う。胸を撫で下ろしつつ部屋に戻り、シャワーを浴びて服を着替え、街に出た。

 日用雑貨の買い物である。せっかくクローゼットや冷蔵庫が取り付けられているのだから、活用しない手はないだろう。そもそも当初着ていた服しか持ち合わせていなかったせいで、あの一張羅はもう見るだけで可哀想になる具合になっている。ダメージ加工だと自己暗示を掛け続けていたがもう限界だ。

 食料と衣服とハンター文字が学べる資料と……。必要そうなものを手当たり次第書きつけたメモを見つつ、揃えられそうな店を探して街を闊歩する。ここに来た一日目と大きく違うのは、路銀を持っていることだろう。貨幣が流通している世界であれば、やはりものを言うのは金。金で解決できないことはあれど、しかしだいたい金で解決するのである。

 傷む可能性のある食料は最後に調達することにした。真っ先に衣服を適当に何着か揃えた。これで一週間着回しコーデは完璧であろう、と自負している。何故なら数着全部同じ服だからである。これは私に非常に服装センスがないことが原因で、店員に勧められた上下セットを色違いで幾つも購入したからだ。ぶっちゃけ服なんて着れればいいのである。アダムとイブだって、とりあえず裸を隠せればいいと思ったから身に着けたに過ぎないのだから。美意識の差は感じれど、劣等感を覚えることはない。ないのである。

 本屋に辿り着いた私は、入り口手前でごくりと生唾を飲んだ。肩に力が入っているのが嫌でも分かる。深呼吸を一つして、私は腹を括って踏み込んだ。



「う……ッ!」



 ――文字、文字、文字。

 入店早々、暴力ともいえるほどの数のハンター文字があちらこちらから視界に飛び込んでくる。文字の集合体ともいえる本が本屋に並んでいたって何もおかしくはないのだが、しかしハンター文字に親しみのない私をたじろがせるには十分であった。ホルスタインがうっかり単独でサバンナに迷い込んでしまったみたいなアウェー感。現代日本でも洋書の群れに囲まれたとき、これと似たような錯覚を得たことを思い出した。

 それでもと足を動かして、子ども向けコーナーを探す。闘技場よりは余程常識的なサイズの店内で迷うことはなく、一分も経たない内に私は目的地に辿り着いた。さも親戚の子どもにあげるんですよ私の為に買うんじゃないですよみたいな面をして、ハンター文字の教材に片っ端から目を通していく。予測していた通り、子ども向けコーナーの片隅にハンター文字の教材たちは群体を形成していた。どれも異なる装丁ながら「オレが いちばん わかりやすいよ!」と主張して憚らない奴らばかりで、私は非常に心強くなった。しかし開いてみて分かったのは、ハンター文字は所謂アルファベットに近いということだった。確かにハンター文字には、日本語のように平仮名カタカナ漢字といった種類はない。象形文字のような、それでいて平仮名を乱雑に書いたようなものがハンター文字の五十音で、それ以外に文字形体はないのである。ハンター文字は単語の読みや意味こそ日本語と同一であるものの、文字としてはアルファベットというキメラなのだった。

 開始五分で眩暈を覚えた私は子ども向けコーナーから一時撤退し、日本語――こちらでいうジャポン語の辞書を探した。あってくれあってくれ……という私の切なる願いが通じたのか、分厚い辞書たちが陳列された棚の端っこに、他より薄いながらも漢字が描かれた媒体に遭遇することができた。思わず膝をついてジャポン語辞典を空に掲げるところだったが、さすがに往来だったので自重した。いそいそと辞書を手に取って開くと、久々に見慣れた日本語が記載されていて、私は胸中で強くガッツポーズした。

 どうやら英和辞典のようなものらしく、ジャポン語が書かれた隣に、ハンター文字が添えられていた。これはいい、と即時購入を決意した。私は辞書を胸に抱えて、再び子ども向けコーナーに戻り、ハンター文字を書く練習としてドリルを二冊選んでから、レジに向かい精算を終えた。

 今日一番の難関を乗り越えたことが嬉しくて、知らず浮足立ってしまう。鼻歌でも歌いそうな顔で本屋を出た私はついそのまま直帰しそうになり、数歩進んだところで「食料!」と一人声を上げた。











 部屋に戻ったのは、夕方を過ぎてからだった。まさかスーパーの調味料コーナーで「どれがどれだよ!」と苦戦するとは孔明でも読めなかったに違いない。野菜や肉といった外観で判断できるもの以外は、パッケージでコンソメだと理解できたモノと塩(あるいは砂糖。白色の粉としか判断できない)と胡椒だけ買ってきた。次に買い出しに出かけるときは、文字が読めるようになったときだ。

 キッチンに入った私は手早く冷蔵庫に食料を詰め込んだ。それから手を洗い、細かく切ったニンニクを炒め、肉を入れて混ぜながら焼く。胡椒と塩(もしくは砂糖)で味付けして、またかき混ぜる。ぐるぐるとニンニクと肉を躍らせながら、ぼんやりと思考も回していた。

 いま抱えている疑問で、もっとも優先度が高いのは――やはりチカラの制御だろう。こうして日常動作を行う分には何ら支障がないのに、いざ私がチカラを振るうと決めると過剰なほど出力されてしまう。それで飯を食っているのだから責められただけでもないが、それにしたってもう少し常識的な範囲に収めたい。

 日常動作と戦いの違い――色々あるが、有無でいうなら私の心持ちだろう。財布を開けるときに意識して手加減などしないし、戦いの最中に無意識で相手を吹っ飛ばすことなどない。この理屈なら、戦いの最中も無意識に応戦できるようになれば、もっとうまく加減できるかもしれない。



「……試してみるか」



 意識して、右手の菜箸を強く握り込む。

 途端、ぽきり。
 左手で持っていた、買ってきたばかりのフライパンの持ち手が折れた。



「……この理屈は違うのか……」



 複雑な面持ちでガスを止め、濡れた布巾で端っこを握り、用意しておいた皿に中身を移す。火が通ってから試したことだけは成功だった。もそもそと肉をかじりながら、自分にフォローを入れた。口の中の肉は甘辛かった。どうやら塩ではなく砂糖だったようだ。



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