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「すごいわね」という声が耳に入った。けれどそれが自分に向けられたものだと思わなかった私はそのまま進んでいきかけた。ぐい、と思い切り腕を引っ張られてつんのめりそうになる。



「無視は酷いと思うわ! 貴女は覚えてないかもしれないけど、でも、振り向くぐらいはしてくれたっていいじゃない!」



 驚いて振り返った私は、くるんとした青い眼と視線が交錯した。

 まだ若い女性だった。私と違ってお洒落な今時の服を着こなしている。天空闘技場の廊下なんかよりはショッピングモールの方が似合いそうなヒトだった。

 見覚えがある、と脳細胞の一部が告げる。でもどこで見たんだろう。此方に知り合いといえるような存在はいない筈だ。二秒ほど考えてようやく思い出した。



「受付嬢さん!」

「……覚えてるなら、引っ張る前に振り向いてほしいものだわ」



 まったく、と嘆息しながら彼女は私の腕を解放した。

 私が天空闘技場に足を踏み入れた日、受付で対応してくれた女性だった。



「それと、受付嬢は仕事。私の名前はイザベルっていうの。気楽にベルと呼んで頂戴」



 受付嬢――イザベルは大人っぽい笑みを浮かべて、私に片手を差し出した。

 慎重に彼女との握手に応じる。壊れ物を扱うような心持ちで、ほとんど力を込めずに添えるようにした。しかしそれではイザベルの触覚は刺激として感知しづらかったらしく、手を引っ込めた彼女は少しだけ怪訝そうな目で私を見つめていた。苦笑いでどこまで誤魔化せただろう。



「うけ、――ベルさんは非番ですか?」



 見るからに受付嬢の制服ではない。

 イザベルはワンピースの裾をわずかに持ち上げて「そうよ」と笑った。



「休みだから、推しの試合を見に行こうと思ったの。その会場に向かう途中でを見つけたわけ」

「推し」耳慣れぬ単語を復唱してから、違和感に突き当たった。「……私、名前教えましたっけ?」

「貴女の書類を受け取って入力したの、私だもの。――まったく、ジャポン語の解読なんてしたのは人生初だったわ。普通は一分もかからないのに、貴女のときだけ一時間もかかったんだから! ちゃんとハンター文字で書きなさいっての!」



 思い出し怒りで肩を上げるイザベルに、すみませんでした、と思わず頭を下げてしまう。

 ……そんなことがあったのなら、他より印象に残るだろう。イザベルが私を覚えているのは自然なことだ。人間は珍奇なことほど記憶に残りやすい。

 イザベルはふいに肩の力を抜いて、柔らかい笑みを浮かべた。



「……ま、いまも活躍してるようで何より。大の男でも三日持たずに逃げ出すときだってあるのよ、ここ。貴女は生き残ってるどころか150階クラスでトップクラスの人気だって聞いてるわ。やるじゃない」



 私は思わず瞠目してしまった。



「え。そうなんですか」

「何よ、当人なのに知らなかったの? 天空闘技場は結果予想を賭けて遊ぶこともできるの。それでどれだけ賭けられるかが人気の指標ってわけ。150階クラスという入れ替わりがもっとも激しい場所で二週間も生き残ってる女の子なんて、いまはだけよ。試合の度、貴女の勝利に賭ける人がどんなにいるか見せてやりたいわ!」



 イザベルは我が事のように胸を張る。
 ほへー、と私は間抜けな声が漏れてしまった。

 知らぬは当人ばかり、なんて創作の中でしか有り得ないと思っていたが、事実は小説よりも奇なり。賭け事が行われているのは承知していたが、まさか自分もその対象になっていたとは。確かに私も立場は天空闘技場の闘士だから不自然なことではないが――それにしたって現実味がない。

 廊下に等間隔で生える柱の一つに寄りかかりながら、イザベルは言う。



「定期的なサボり癖さえなければ、200階も間近って言われてるわよ。そのあたり、期待されてる本人としてはどうなの?」



 色よい返事を期待されているのは、彼女の表情で察せられた。
 しかしその期待に応えることは出来そうにない。

 私は人差し指でぽりぽりと頬を掻いた。



「……その。申し訳ないんですが、200階には行く気がなくて」

「はァ!?」



 目を剥いたイザベルの大声で、廊下を去来していた人々の目が一時的に私たちに集まった。

 彼女はハッとして、こそこそと小声で言葉を続ける。



「何でよ。200階に――バトルオリンピアに行きたくて天空闘技場に来たんじゃないの!?」



 周囲の視線がすっかり散ったのを確認してから、私はキャップ帽を被り直した。イザベルの話を聞いた後だからか、やけに人目が気になったのだ。



「だって200階なんて、怖いじゃないですか」

「……じゃあ、何でこんなところにいるのよ」



 こんなところ――天空闘技場200階、一般用廊下。

 ぷうっと頬を膨らませたイザベルの眼前に、私は先日手配しておいたチケットをかざした。



「たぶん、ベルさんと同じ理由ですよ」



 それはこれから行われる200階クラスの試合観戦チケットだった。

 私の場合、彼女とは少々異なる動機なのだけど。













「200階に来るんだから、これから戦う相手達の偵察に来たんだと思ったのに……」



 観客席についてからも、イザベルはまだぶつぶつ言っていた。

『推し』目当てで来ているからか、彼女もかぶりつきの最前列だった。理由は異なれど、奇しくも席は隣同士だったので私たちが言葉を交わし合うのに不自由はなかった。試合が始まる寸前ということもあってか、リング周辺はスタッフたちが慌ただしく最後の点検を行っており、場内は期待と熱狂の渦が巻いている。



「……偵察ではないですけど」戦うつもりないし。「参考になればいいな、とは思ってます」

「戦わないのにどう参考にするってのよ」



 ちょっと不機嫌な言い方のイザベルに、無言で曖昧な笑みを返す。

 理由を口にするのは簡単なのだけど、きっと念を知らないだろう彼女にはよく分からないだろう。まさか「念の制御方法を勉強したくて!」「あらそう、頑張ってね」なんて穏やかな会話にはなるまい。興味を持たれてがつがつ問い詰められる、なんて状況は何としてでも回避したいところだ。



「――ところで、ベルさんの推しというのは?」



 話題転換は驚くほどあっさりと成功した。

 不機嫌を音速でかなぐり捨てたイザベルは少女のように目を輝かせ、両手を握りしめて力説する。



「ヒソカよ、ヒソカ=モロウ! ピエロみたいなイカれた格好してるんだけど、顔立ちがほんっとうに最高なの! たぶん天空闘技場一のイケメン! 最近上がってきたカストロも良い線いってるけど若干ヒソカには及ばないわね! 顔がね、ヒソカの顔がね、めちゃくちゃ好きなのよ!」

「……か、顔ですか」

「そう! 顔が! 好きなのよ!」



 熱の入った主張に、思わず身を引いてしまう。



「……つ、付き合いたいとかではなく」

「は? こんな場所にいる戦闘狂なんかと付き合いたいわけないでしょ。顔が好きなだけよ。試合を見に来るのは、ヒソカが死んだときに何としてもその生首をゲットするためだし」



 ……歪んだ愛だ。

 二の句が継げぬ私に、イザベルは「あのメイクのせいで気付いてない女も多いんだけどそれはライバルが減ってむしろラッキーよねでも女子会でヒソカファンだって言うとドン引かれるのはちょっと困ってるわ合コンでも明らかに男受け悪いし」と止まる気配のないマシンガントークを炸裂させる。

 うんうんと相槌を打っているように見せかけながら、私は別のことを考えていた。

 ――ヒソカが200階にいると知ったのは、先週のことだった。彼が卓越した念使いであることはばっちり記憶していた(他に類を見ない鮮烈なキャラクター故だろう)私は、ヒソカの戦いからチカラの制御方法を探れないかと思ったのである。

 初日のような手加減失敗こそ最近は減ったが、それでもヒヤッとするときはある。今のところ殺人者にはなっていないけど、肝を冷やす回数は少ないに越したことはない。意味があるかはともかく、可能なことを手当たり次第にやっていくしか今は方法がないのだ。

 ……まあ。ちょっぴりミーハーな打算があったことも否定はしないけれど。安全地帯からあのキャラが見れるのならば、見てみたいと思うからこそファンなのだ。



『皆様長らくお待たせしました! これよりヒソカ対バリトンの試合を開始致します!』




 放送がかかった途端にイザベルはスイッチが切れたように口を閉ざした。私からリングに視線を移す。そしてヒソカが入場してきた直後、彼女は会場の熱狂と一体化した。まるでアイドルのコンサートで熱心なファンが一斉に雄叫びを上げているようだ。波に乗り損ねてしまった私はどこか取り残されたような気持ちで、所在なく身を縮める。

 悠然とリングに上がったヒソカは、私が知っている通りの――いや、それ以上にぞわりとする雰囲気の持ち主だった。実際に目にしなければ分からない不気味さが、ヒソカにはある。それがどこから湧いているのかは分からないけれど、現代日本で生活していたらお近づきにはなりたくないタイプであることは確かだ。もし同じ学校に在籍していたら、私は何があっても彼に話しかけようとはしないだろう。

 ヒソカの対戦相手は、彼より頭一つ分背の高い男だった。こじゃれたモノクルを付けた、気障な雰囲気の青年である。マントに覆われていたからすぐ分からなかったけど、男には右腕がなかった。恐らく200階の洗礼によるものだろう。ヒソカと同じく念のオーラを纏っている彼がそれ以下で怪我を負うとは考えづらかった。

 ――凝は、していない。少なくとも意識的には。

 たぶん半自動的に行われているのだと思う。これもチカラの一種なのか、副作用なのかまでは未だ判然としない。その辺りも含めて、この試合で手掛かりを掴めればいいと思っていた。

 ……握手するにも気をつけなきゃいけないチカラなんて、あまり褒められたものじゃない。













 試合は終始ヒソカの優勢に終わった。これは想定内。

 誤算だったのは、今回ヒソカがあまり念を使わなかったことだ。時折使ってはいたけれど、サンプルケースとしては不十分な回数だ。あのバリトンとかいう男の体術が、ヒソカの遥か格下であったことが要因として挙げられる。

 念を見て制御の参考にするなら、ヒソカ以外の200階クラスの試合がいいのかもしれない。あまりに抜きん出た実力者が対象だったときは、それなりの目を持たないと観察の意義を失ってしまう。いまの私にそれなりの目がないことは今日痛感した。このチカラは、目利きまで強化してくれないらしい。



「やっぱり今日も男前だったわねヒソカ! 相手のパンチが頬を掠めたときは血の気が引いたけど、あっさりかわしてくれてよかった! これで明日からも仕事頑張れるわー!」



 きっとヒソカの『顔』が傷つかなくて喜んでいるのだろうイザベルはうきうきした様子で、私の隣を歩いていた。会場を出てからというもの、ずっとヒソカの顔がいかに素晴らしいものであるかを修辞を効かせた言葉で発していた彼女だったが、ふいに私の顔を覗き込んできた。



、これからどうするの? もし時間があるならご飯でも一緒にどう?」



 予想外の提案に、よそ事を考えていた私は反応が一歩遅れた。



「……え。いいんですか?」

「貴女がよければね。――まだまだ語り足りないもの、私!」



 ぐっと強く拳を握ったイザベルに、私は乾いた笑いを漏らしてしまう。

 ……嬉しいお誘いだった。こちらの世界に来てからというもの、ずっと一人だった私には、断る選択肢が思いつかなかった。誰かと一緒に食べるご飯なんて、想像しただけで顔が綻んでしまう。



「むしろこちらからお願いします。ベルさん」

「じゃあ後で合流しましょう。ケータイの番号教えて」

「……すみません。私、ケータイ持ってないんです……」

「はぁ!? ……貴女には会った日から驚かされてばかりだわ……。――もう、仕方ないわね。じゃあご飯を食べる前に、貴女のケータイ買いに行くわよ」



 天空闘技場の入り口前に六時に集合ね、と言い付けてイザベルはエレベーターに乗っていった。

 私はエレベーターを利用しないので、彼女を見送ってから踵を返した。階段通路に近くなるにつれ、人混みはまばらなものになっていく。こつんこつんと硬質な音を立てて階段を下りだしたときには、周囲に人影は無くなっていた。

 天空闘技場はむやみに高い。なので移動手段はもっぱらエレベーターかエスカレーターといった文明の利器だ。階段なんて利用するのは物好きか、私のように人払いされた場所を必要とした者ぐらいだろう。



「――私に何か御用ですか」



 踊り場で振り返ると、一帯に不気味な沈黙が下りた。

 イザベルと別れる少し前から、背筋が粟立つような感覚があった。それは何者かに監視されているからだと気付いたときの私の衝撃は言葉で言い表せない。イザベルの前で平静を保ち続けたのは、近年稀に見るファインプレーだったと思う。

 蛞蝓のようにねっちょりとした、生理的に受け付けない視線あるいは気配。いまもそれに包み込まれている感覚があった。場合によっては自己防衛のためチカラを行使することもやむをえまい。生唾を飲んで拳を握ったとき、その原因は現れた。

 ……さっきから何者かとか原因とかぼかして言っていたけど、本当は心当たりがあった。はっきり認識しなかったのは――認めたくなかったのは、そうであってほしくないと願っていたからだ。



「このまま気付かれないかと思って、少しドキドキしたよ。そしたらキミの部屋にお邪魔するつもりだったけどね」



 確か漫画内では語尾にトランプ柄の図形が付いていた筈だけど、さすがに現実では視認できない。だけど独特の口調は思っていた通りどこか底知れぬものがあって、知らず私は警戒心を強くする。

 ヒソカがそこに立っていた。



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