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「率直に言うとボク、きみがいつ200階に上がってくるかなってワクワクしながら待ってたんだよ」

「はあ」

「何で来ないの」



 ヒソカはポーカーフェイスで笑いながら、しかし不満げな口調で言い切った。

 踊り場にいる私は上段にいる彼を自然見上げる形になる。かち合う視線を逸らすこともできず、さてどうしたものかなと内心冷や汗まみれで考えた。ヒソカから向けられる視線は矢のようで、目を逸らせば最後それに心臓を射抜かれてしまいそうだった。

 戦うのは嫌だ。うっかりチカラのせいで勝ってしまっても嫌だ。負けて死ぬのは一番嫌だ。

 複雑怪奇な乙女心を胸中で悶絶させてから、私は深呼吸の代わりに息を吐き出した。



「……何で、と言われても。行きたくなかったからとしか」

「ボクはきみと戦いたくて仕方ないんだけどな」

「私は戦いたくないです」



 怖いし――とまでは口に出さないけど。

 きっぱり言い切ると、ヒソカは苦々しい感情を表に出した。その細腰に手を当て、もう片方の手で私をびしりと指差した彼は言う。



「何で」

「……嫌なものは嫌です」



 だって怖いし――とはやっぱり言えない。

 生粋の戦闘狂である彼に理解してもらえる言い分だとは思わないからだ。それに、自分の状態ぐらいは把握している。何故か私は身に余るチカラを行使できる身分なのだ。このチカラで身の丈以上の欲望をどうこうしようとは思わないけれど、それが原因で誰かに目を付けられることは有り得なくもない。イザベルから教えてもらった賭けで私がそこそこ人気であるように――こうしてヒソカに目を付けられてしまったように。



「なら、ボクが降りていこうか」



 突然の申し出に、私は知らず目を見開いた。

 ヒソカは再びにっこりと笑っていた。
 ピエロの仮面を彷彿とさせる、誂えられたような笑みだった。



「こうやって――」



 硬質な音を――恐らくはわざと――響かせて、ヒソカはゆっくりと段差を下りてきた。

 私は無意識に逃げ場を求めていた。ヒソカから逃げるように踊り場の上を後退して、やがて壁に背中からぶつかって行き詰る。そんな私を嘲笑うように、彼は芝居がかった動作で腰を曲げて、あと少しでその高い鼻先がこちらのそれにぶつかるという距離まで顔を近付けてきた。

 爬虫類を彷彿とさせる目が、三日月を模る。彼が蛇なら私は蛙だろうか。



「――階段を下りるみたいにさ」



 ごくり。無意識に飲んだ生唾の音で、私は現実逃避すらも許されない。

 おまえが200階に来ないのなら、自分が150階クラスまで下りてやろうか――ヒソカはそう言っているのだ。



「……た」言葉が、うまく出てこない。「戦いたいなら……どうして此処で仕掛けてこないんですか。その方が余程手っ取り早いでしょう」



 せめてもの虚勢で、ヒソカを真っ向から睨みつけてやる。

 私と戦うのが目的なら、互いの階層を合わせるなんて面倒なことはせず、今此処で襲い掛かってくればいい。私がイザベルと別れるまで緊張しながらも平静を装っていたのは、それが理由だ。もし彼女がヒソカの魔手にかかったとしたら、自分が冷静でいられるとは到底思えなかった。
 やっと、少しだけかもしれないけれど、本当にそうなのかもまだ分からないけれど、安らげる居場所を見つけたのだ。そこを――彼女の平穏を決して壊されたくなかった。

 私の睨みなどそよ風程度にもならないらしく、ヒソカは飄々と顔を引いて背筋を伸ばした。



「だって、きみを殺したいわけじゃないからね。ならルールに縛られた天空闘技場の方がも安心だし、ボクもいくらか制御が効く」彼は小声でこう付け足した。「――少なくとも、今はまだ」



 小さな虫が全身を這っているような生理的嫌悪が私を身震いさせた。

 話が――通じない。そう確信した。
 ヒソカという生き物は根本的な部分が、彼を彼たらしめる基盤が、私とは絶対的に異なっている。口にしている言葉こそ同じだから表面的には意思疎通が可能であるかのように見えるけれど、それは虚飾に過ぎない。私とヒソカが正しい意味で――相手を理解できないと痛感する以外で相互理解することは永遠に有り得なかった。

 この世界では少なくとも、私たちは同じ人間である筈なのに――どうしてこうも違うのか。

 悪寒は止まない。唇が意図せず震えた。私は恐怖に背を押されるがままだった。



「……やっぱり、嫌です」



 三度の否定に、ヒソカは微かに眉根を寄せた。



「何で? どうしてそこまで嫌がるんだい? きみは素晴らしいチカラを持っている。それは戦う為に身に着けたモノだろう?」

「違います」否定は反射的に零れた。「私はこんなモノ、欲しくなかった」



 ヒソカに理解してもらえるとは依然思っていない。
 だけどどうしても、そこだけは断固主張しておきたかった。

 私という人間がここだけは――譲れなかった。



「…………」



 ヒソカは急に口を閉ざした。黙考しているのか、じっと私を見下ろす以外は何もしない。

 そうして悠然と佇立しているだけでも絵になる彼は、確かにイザベルの審美眼通り美形ではあった。彼女とは別の理由で女心は揺り動かされないが、客観的に見て彼の造形が整っていることは認めざるをえまい。多少舌打ち混じりになってしまうだろうけど。

 まさかそんな考えが読まれたわけではあるまいが、ヒソカは突然開口した。



「きみのオーラそれ、もしかして借り物?」



 ――私が想像もしなかった一言と共に。



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