凶兆






 ……我ながら、絵心先輩に勝てなさすぎる。

 僕はいつだって彼の言葉に誘導されてしまう。思えば、出会ったときから弁舌で勝てたことなんて一度もなかった。そういう星の下に生まれたんだろうか……クソ。

 生活用品一式と共にやってきた“青い監獄ブルーロック”は、なかなか立派な施設だった。管理者側として許可をもらって自由に散策した限りでは、これほどフットボールに特化した建物はあるまい、と思えるぐらい。長く居つけばもっと改善点は見つかるかもしれないが、そのあたりは絵心先輩の仕事だ。

 僕が絵心先輩に任された仕事は、英雄の卵を見つけること。
 それだけ。

 孵化させろとか、英雄に仕立て上げろとか、そういう面倒なのは一切ない。

 ほとんどニートだ。これで給金がもらえるんだから、大人の世界ってつくづく汚い。僕が知らぬ存ぜぬを決め込んで過ごしたらどうするつもりなんだろう、絵心先輩。

 ……それはそれで別に、とか言いそうだ。

 とにかく一通りは見て回った。あとは自室に戻ってダラダラしていよう。短い休暇を終えた“青い監獄ブルーロック”の囚人たちが戻ってくるまで、僕の仕事はない。

 ──どうせ、英雄なんてそう簡単に自然発生しないんだし。

 眠気覚ましに背伸びしながら廊下の角に差し掛かったとき、誰かの気配とぶつかりかけた。


「あ、すみません」


 “青い監獄ブルーロック”は新生にあたって、あちこち改装していたから。その工事業者か、あるいは僕のような関係者だろうと、ぶつかりかけた謝罪を口にしながら顔をあげる。

 瞬間、後悔した。


「……


 愕然と瞳を丸くする旧友ノアが、そこにいた。


「あ、はは────」


 無意識に漏れた引きつり笑いがスタートの合図になったのか。

 僕は考えるよりはやく回れ右をしていた。

 全力疾走でノエル・ノアの眼前から逃げ出す。

 最悪最悪最悪。もうちょっと自然で穏便で心の準備をした再会にするつもりだったのに。こんな油断しきったところでかち合ってしまうとか、マジでついてない。


「俺から逃げられると思ったのか」

「ギャ────ッ!」


 しかし哀れかな、数年のブランクプラスそもそもの身体能力であっさり捕まってしまった。

 ぷらーん、と子猫のように軽々持ち上げられて、ノアの前に吊るされる。辞めたきり会っていないが、……コイツ、ますますガタイが良くなっている。


「……オ、オヒサシブリデスEs ist schon lange her.

おまえのドイツ語を聞くのも久しぶりだEs ist lange her, dass ich Sie Deutsch sprechen gehört habe.


 ノアは僕を下ろして、地に足をつける許可を出す。

 ……逃げるな、と言わないのは、もし逃げてもすぐ捕まえられる自信があるからだろう。


「俺からの連絡にはまるで応じなかったのに、相変わらず絵心にはすぐ尻尾を振るらしい」

「……エ、エヘヘ」

「誤魔化すときの笑い方まで変わらないな、おまえは」


 ますます僕に言い募ろうとしていたノアの口が不自然に止まった。「違う」小さく呟いて、彼は瞬きを一つ。


「おまえとは、こんな話をしたかったわけじゃない」


 ノアの大きな手が僕の肩を軽く、優しく、叩いた。


「元気そうで安心した」


 ……そんなこと言われちゃあ、こっちも一人で気まずくなっているのはダサい。


「ノアこそ。といっても、きみの雄姿はどこにいても届いたけどね」

「……おまえ。辞めてからも、見ていたのか」


 軽口のつもりだった箇所に、ノアは意外そうに食いついた。


「そりゃ見るよ。別に僕、サッカーが嫌いになったわけじゃないし」

「だが、……おまえは『飽きた』と」

「飽きたと嫌いは違うだろ。もう自分がやる気にならないだけ」


 ノアは開いた口をそのままに固まった。言うべきことはたくさんあるのに、どれも口に出す気にならない──いや、声にした途端に溶けてしまうのを恐れているかのようだった。

 ややあって、彼は細い息を吐いた。


「そうか」


 ひどく、安心したように。


「嫌いになったわけじゃ、なかったのか」


 ……………………。……なんだろう。

 いまのノアの顔を見ていたら、自分がひどく申し訳ないことをした気になってきた。

 やっぱり辞めてから友人関係すら断絶させてたのはまずかったかな……でも、あの手この手で戻ってこいコールされても面倒だったしな……けど変に心配かけてたなら悪いし──。


「なら、また戻ってこられるな」

「なわけねえだろこのクソエゴイストがよ」


 こんな奴相手に申し訳ないとか思った僕がバカだった! そうだよ、僕はノアの性格を分かってたから、何も言わず全速力で日本に帰ってきたんだった!


「ああ、そういえば」


 ふいにノアは思い出したように言った。


「今回、日本に来ているのは俺だけじゃない。バスタード・ミュンヘンうちUアンダー-20カテゴリーのメンバーたちを連れてきている」

「……つまり?」

「カイザーもいる」

「すみません急速かつ深刻な腹痛が」

「おまえ十八番の逃げ口上も懐かしい」

「同情ぐらいしろよバカ!」





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