たとえ地平線の彼方でも





「私が死んだあともしばらくは引きずってほしい」


 もうすぐ病の淵に呑まれて帰ってこられなくなる女は、寝台で一人横たわりながらに言った。

 は寝台の側の窓辺に腰掛け、月のない空を眺めるのを切り上げ、彼女の声に耳を澄ませていた。


「あなたは長い時間を生きる人だから、ずっとは無理でしょう。だから、しばらくでいい。私が生まれ変わるぐらいまで、引きずって」


 その頃、は凡人に倣って男女関係の真似事をしていた。その相手に立候補したのが彼女だった。

 彼女は生まれたときから病弱で、と出会う数年前に不治の病にかかり、いまはいつ死んでもおかしくない状態だった。肌はどこもかしこも雪より白く、骨と皮ばかりの身体。凛とした声で話しているのが不思議なぐらいだった。


「しばらくって、どれぐらい?」


 の問いに、彼女はちょっと考えた。


「……三百年ぐらい?」

「意外と短かった」青年は忌憚ない感想を漏らす。「もっと欲張ればいいのに。三百年なんてあっという間だよ」


 彼女はたまらずといった風に笑った。


「三百年があっという間なのは、あなただけよ」


 そんなにあったら凡人は元気に美しく生まれ変わってまたあなたを探しに行くの、と女は夢を語るみたいに嘯いた。


「あなたは生まれ変わった私を私だと分かってくれるかな」

「試したことがないから未知数だけど、おそらく無理だ。俺にそんな能力はない」

「冷たいひと。そこは嘘でも『分かる』と断言してよ」

「それはごめん」


 はあっさりと謝ってから、


「でも、俺に分かるのはいまのきみだけだ。いまのきみのことなら、三百年後も覚えている」


 女は瞠目したあと、肩を竦めて微笑した。


「ずるいひと」












「一回だけだから! 本当に一回だけでいいから!」


 夜、璃月港。

 琉璃亭で貸し切った一室で、タルタリヤはに食い下がっていた。

 晩餐の席で気兼ねなく酒が飲める相手のせいか、今夜のタルタリヤの酌は普段より格段に進んだ。相伴にあずかっているが「その辺でやめておいた方がいいんじゃない」とそれとなく制止したのを「平気平気」と笑って流し、追加の酒を注文したほどだ。

 結果、現在。


「酒の席なんだし、酔った勢いでキスぐらい許してよ!」

「自分で『酔った勢い』とか言う時点でダメだ」


 ──翌朝の彼が頭を抱える惨状に陥っている。

 すっかり全身の血流が良くなっているタルタリヤを両手で押し退けるにも相応の酒は既に入っているはずだが、後者のかんばせは平然としたものだ。素面と嘯かれても、第三者なら信じかねないほどである。


「それにまだ二五七にひゃくごじゅうなな年なんだ」

「さっきからずっと言ってるけどそれ何の数字なのさ!」

「タルタリヤには関係ない」

「絶賛いま関係大有りなんだけど!」

「数十年後も同じことが言えたら一考してやる」

「俺にジジイになってもの尻を追いかけてろっての!? どういう根性して……。……うーん、そんなに悪い未来でもないか……?」


 前のめりになっていた身体を自分の椅子に戻し、タルタリヤは眉間にしわを寄せて考え始めた。その真面目腐った顔を肴に杯を呷り、は思う。コイツ、今晩はとことんポンコツだな。


「だいたいなんで俺と口付けしたいんだ」

「あ、ってキスのこと口付けって言うんだね。じいさんみたい」

「……きみよりうんと年上だからな」


 それで、と質問の答えを促せば、タルタリヤはあっけらかんと放言する。


「俺がのこと好きだから。キスの一つでもしておけば、良い思い出にしておけそうじゃない?」

「……二度と思い出したくない黒歴史にならないか?」

「そうなったらなったで面白いでしょ」


 からからと笑うタルタリヤは明らかに前後不覚だった。面白がれるのはいまのタルタリヤだけで、もし彼が正気に戻ったら、いまの自分の首を絞めたくなるに違いない。


「……そういうことなら、」


 と。は言いかけて、




 
 ───『三百年があっという間なのは、あなただけよ』




 
 ふと、昔の言葉を思い出した。
 その意味を、いまやっと理解した気がした。


「……やっぱりダメだな」

「ケチ!」


 プイッと顔を背けたタルタリヤに、は苦笑を漏らす。


「最低でもあと四三よんじゅうさん年待ってくれ」

「だからその数字は何なの!?」





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