手づるというには細すぎる






 崖から落ちる夢を見た。

 深夜二時を過ぎたときのことだ。目覚めて真っ先に「夢でよかった」と思った。自分にはまだやらなければならないことが、それこそ山ほどもある。若い身空でなどとありきたりな文句をほざく気は毛頭ないが、自らがおいそれと死んでいい立場にないことぐらい理解していた。

 幾つかの条件を積載した天秤が脳内で揺れる。


(……寝ればまた続きを見る)


 見たくないものほど突きつけられる。現実も夢も同じだ。

 三時間前にようやく横になれたベッドから起き上がり、枕元に置いてあったノートパソコンを引き寄せる。しばらくそれで残務を済ませようと試みてみたが、いまひとつ集中力に欠けていた。

 考えずとも分かる。まだ夢に引きずられているのだ。

 深淵を凝縮した闇に落ちる。覚えがある感覚だが、積極的に思い出したい感覚ではなかった。そんなものを夢に見るのは、何かしらの未練がそこにあるとでもいうのだろうか。

 思い出せない。
 思い出したくもない。
 けれど、忘れられない。


「………………」


 気付けば、キーボードを叩く手が止まっていた。

 知らず舌打ちを漏らし、己に喝を入れる。自らの不甲斐なさが心底から腹立たしい。夢幻如きにここまで振り回されるなど……。

 水でも飲めば、気分が変わるだろうか。

 立ち上がりかけたとき、サイドテーブルに放り投げていた携帯端末が不在着信を知らせる色で点滅しているのに気がついた。仕事のそれかと開いてみれば、何のことはない。実に些末な相手からの、きっとなんてことはない連絡だった。

 二十秒弱のメッセージが吹き込まれていた。再生する。


『もしもし、海馬くん? 私です、。明日なんだけど、ちょっと早めに行ってもいい? ババロア作り過ぎちゃったからもらってほしいんだ。あ、きみ甘いもの平気だったっけ? まあ食べられなかったらそれはそれでいいや。ところで電話に出ないってことはまだ仕事? ならお疲れさま。無理しちゃダメだよー』


 ピー、と無機質な機械音が終わりを知らせる。

 ……最初から最後まで、緊張感とは無縁な声色だった。聞いているだけで脱力しそうな内容だった。

 一蹴するのはあまりにも易く、けれど自分の手はもう一度再生するように端末を動かしていた。


『もしもし、海馬くん?』


 先程と一言一句違わぬ、声の波まで変わらないメッセージが再生される。

 それを聞きながら水を飲み、ベッドに戻った。途中でメッセージが終わってしまったら、その都度すぐに再生を繰り返した。


『もしもし、海馬くん?』


 開いたままだったノートパソコンを閉じ、再び枕元に押しやる。自らが寝るスペースを確保して、そこに転がった。

 目を閉じる。耳元に置いた端末を、また再生させる。


『もしもし、海馬くん?』


 これを吹き込んだ相手は、とっくに寝入ってしまっているだろう。鬼畜生のように無理矢理叩き起こすのも不可能ではないが、元を辿ればこのメッセージは自分が連絡に気付かなかったことが発端だ。寝た子を起こす行為には、さしもの自分も少なからず罪悪感を覚えるというもの。今回ばかりは耐えてやろう。


『もしもし、海馬くん?』


 暗闇に落ちていく自分を呼ぶ声がする。

 それを反芻しているだけで、他の一切合切は残らず手放せた。もうあの夢の続きは見ないだろう。


『海馬くん』


 ───ずっとずっと、馬鹿みたいに呼んでいろ。





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